歴史的事件由来
388件収録
「愛知」の県名は古代の郡名「愛知郡」に由来する。「あいち(あゆち)」はかつて名古屋南部に広がった干潟「年魚市潟(あゆちがた)」を語源とし、崩落地形を意味する古語に遡る。
県名は古代の茨城郡(いばらきぐん)に由来する。『常陸国風土記』に記された黒坂命が「茨の城」を設けて賊を討ったという説話が語源とされ、「うばらき」が母音交代により「いばらき」に変化した。
岩手山の地形に由来し「岩が出た場所」を意味するとする説と、三ツ石神社に伝わる鬼の手形伝説に由来するとする説がある。いずれも「岩」と「手(場所を示す語)」を語源とする。
『古事記』の国生み神話で四国(伊予之二名島)の伊予国の魂に与えられた神名『愛比売(えひめ)』に由来し、『うるわしい女神』を意味する。
「香川」の県名は古代から続く郡名「香川郡」に由来する。「かがわ」の語源は「樺川(かばかわ)」の転訛や、花の香りが川に移る様子など複数の説がある。廃藩置県後に2度廃止・2度復活という日本唯一の波乱の歴史を持つ。
「岐阜」の地名は1567年に織田信長が美濃を攻略した後、旧地名「井口」を改称して命名したものである。中国の聖地「岐山」の「岐」と孔子生誕地「曲阜」の「阜」を組み合わせ、天下統一の志を込めた地名とされる。
「京都」は「首都・みやこ」を意味する漢語に由来し、794年の平安京遷都以来の地名である。「府」は明治政府が東京・大阪・京都の三大都市にのみ与えた特別な行政区分で、政治・文化の中心として他の県と区別された。
「高知」の地名は、山内一豊が鏡川と江の口川に囲まれた地形から「河中山(こうちやま)」と命名したことに由来する。水害連想を嫌い「高智」→「高知」と改字され、城名・城下町名から県名へと引き継がれた。
「東京」の名は1868年(明治元年)の明治天皇の詔によって「江戸」を改称したもので、「東の京(みやこ)」を意味する。京都に対する東の都として命名され、日本の首都となった。
「徳島」の名は1585年(天正13年)、蜂須賀家政が吉野川河口の三角州に築いた城を「徳島城」と命名したことに由来する。島状の地形と縁起の良い「徳」の字を組み合わせた命名とされる。
水鳥を捕る職能集団『鳥取部(とっとりべ)』に由来し、その起源は『日本書紀』垂仁天皇の代に天湯河板挙が白鳥を捕獲した説話にまでさかのぼる。
「富山」の地名は室町時代の「外山(とやま)」に由来し、呉羽山の外側(東側)に広がる地域を意味する。江戸時代に縁起のよい「富山」の字に改められ、廃藩置県で県名に採用された。
「兵庫」の地名は、天智天皇の治世に現在の神戸市兵庫区付近に設けられた「兵の武器庫(つわものぐら)」に由来するとされる。廃藩置県時に兵庫港のある港湾都市の地名が県名に採用された。
文禄年間(1592〜1593年)に木村吉清が「杉目城」を「福島城」と改称したことに由来する。吹島(ふくしま)が転じた説と、縁起を担いで「福」の字を用いたとする説がある。
「北海道」の名は1869年(明治2年)に探検家・松浦武四郎の提案により「蝦夷地」を改称したもの。「北加伊道(ほっかいどう)」の「加伊(カイ)」はアイヌの人々の自称に由来し、後に「海」に改められた。
宮城郡名に由来し、湿地を意味する「みやき(やき)」が転じた説と、塩竈神社や多賀城など宮や城の存在にちなむ説がある。1871年(明治4年)に仙台県から宮城県へ改称。
「宮(神社)の前の地(崎)」を意味し、神社の前方にあたる場所「宮前(みやさき)」が転じたとする説が有力。奈良時代にはすでに「宮崎郡」の名が文献に登場する。
「和歌山」の名は1585年(天正13年)、豊臣秀吉が紀伊を攻略した際に、名勝「和歌の浦(わかのうら)」にちなんで命名したとされる。城と城下町に「和歌の山」の名が与えられ、以後「和歌山」として定着した。
市名は平成の大合併時に公募で決まり、「愛知県の西部」に位置することから「愛西」と名付けられました。候補の中から「海西市」との決選投票を経て採用されています。
藍住町の地名は、阿波藍の栽培・流通で栄えた土地柄に由来するとされます。藍の産地としての歴史が、町名にも色濃く残っています。
会津美里町の町名は、旧会津高田町・会津本郷町・新鶴村の合併に際し、会津の歴史と美しい里のイメージを重ねて名づけられました。地名の「会津」自体は、古事記に見える「相津」に由来するとされます。
会津若松市の「会津」は、古くは川や水辺が合う場所を表す「相津」に由来するとされ、のちに「会津」と表記されました。市名の「若松」は蒲生氏郷が城下町整備の際に改称したものです。
徳川家の家紋「葵」にちなむ区名で、静岡市中心部の歴史と格式を表しています。政令指定都市移行に伴い2005年に設置された比較的新しい行政区です。
港付近に生い茂っていた常緑樹の「青い森」に由来するとされる。江戸時代初期に津軽藩が港湾開発を行った際、この地名が定着した。
赤磐市の地名は、合併前の赤坂郡と磐梨郡の郡名を組み合わせたものです。奈良時代以来の郡名を受け継いだ、比較的新しい合成地名です。
昔の「吾勝野(あがつの)」が二つに分かれ、「アカ村」と「ツノ村」になったという伝承が地名由来として伝えられています。景行天皇の言葉にちなむ説が、村名の成立を説明します。
『日本書紀』に「齶田(あぎた)の浦」として登場する古い地名。語源は「周辺より高くなっている場所」を意味するという説が有力で、飛鳥時代から続く地名の歴史を持つ。
町名の由来は明確には不明ですが、古代の木簡に見える「阿具比」や「英比」にさかのぼると考えられています。中世には「阿古居」と書かれた例もあり、古い郷名の復活使用によって現在の町名が定着しました。
朝霞市の名は、昭和7年の町制施行時に、東京ゴルフ倶楽部名誉会長の朝香宮にちなんで改称されたことに由来します。旧村名の膝折村からの改称で、近代の町名制定の経緯が色濃く残る地名です。
区名は「日の出ずる東部」を意味し、旭日昇天の勢いで将来の発展が約束されるようにとの願いから名付けられました。
市名は木曽義昌をしのんで詠まれた和歌にちなむとされ、旭市の由来として伝えられています。旧旭町の成立時に採られた名称で、現在の市名へ受け継がれました。
足利市の地名は、古くからこの地を本拠とした足利氏に由来すると考えられています。中世の武家・学問の歴史を背景に、地名が広く定着しました。
明日香村の地名は、古くは飛鳥地方の呼称に由来し、地形説や外来語説など複数の説があるとされています。行政名としては1956年の合併時に縁起のよい「明日香」が採用されました。
我孫子市の「我孫子」は、古代の人名・氏族名に由来すると考えられ、鎌倉時代末には「アビコ」として確認できます。大和政権との結びつきや、各地に残る同系統の地名とも関係があるとされています。
綾町の地名は、古代の日向国の駅制に見える「亜椰」に由来するとされ、さらに古い「あだのなかや」という地名が好字二文字化によって「綾」となったと考えられている。
有田市の地名は、古代の郡名である有田郡に由来します。もとは安諦郡と呼ばれ、平城天皇の諱を避けて改称されたと伝えられます。
安城市の地名は、戦国時代の安祥城に由来する説が有力です。ほかに、安祥寺の荘園名や瑞祥地名とする説も伝わっています。
古代〜中世の荘園名「安堵庄」に由来するとされ、もとは「アト」と呼ばれた低地の地名に、縁起のよい字を当てたと考えられています。
古くは『味蜂間郡(あはちまごおり)』や『安八萬』と記された地名に由来し、発音の変化を経て安八町の名になったとされています。
飯島町の地名は、鎌倉時代に飯島氏がこの地を支配し、飯島郷・飯島城を中心に地名が定着したことに由来します。
飯塚市の地名には、神功皇后の伝説に由来する説と、飯を炊いた塚にちなむ説の二つがあります。市の公式案内ではこの二説が紹介されています。
斑鳩町の地名は、イカル(斑鳩)という鳥が群れていたことに由来する説が有力です。ほかに、伊香留我伊香志男命にちなむ説も伝わります。
諫早の地名は中世の『伊佐早』に由来し、戦国時代末期に領主となった龍造寺氏が『諫早』の表記へ改めたとされる。
地名は古くは伊自牟・伊甚などと記され、夷隅は「いじむ/いじみ」からの変化とされます。のちに難字の灊に代わって夷隅が用いられ、平成の合併でひらがなの市名「いすみ市」となりました。
伊勢神宮を守護神として奉ったことから「伊勢の前(いせのさき)」と呼ばれ、転じて伊勢崎となったとされます。戦国期の城名・地名の変化が現在の市名につながりました。
江戸時代初期、伊勢山田の曽右衛門らが千手ケ原を開き、伊勢神宮を勧請して鎮守としたことに由来すると伝えられます。伊勢の国の人々が住みついたことから「伊勢原」と呼ばれるようになったとされています。
古くは板来・板久とも書かれ、常陸国風土記では「伊多久」の郷と記された地名です。水郷の要衝として栄え、のちに潮来へ改称されました。
一戸町の「戸(へ)」は、糠部地方に見られる「一戸」から「九戸」までの連続地名の一つで、古代の牧場・行政区画や交通路に由来するという説が有力です。
糸魚川市の地名は、暴れ川として恐れられた姫川を「厭い川」と呼んだことに由来するという伝説が残ります。現在の市名はこの伝承に基づくとされます。
地名の由来ははっきりしませんが、「夷中(いなか)」が転じた説や、「稲家」に関係する説が伝わります。村名は古くからの稲作の歴史とも結びつけて語られています。
市名は古代の豪族・猪名部氏に由来し、和銅6年に「猪名部」から「員弁」へ改められたと伝えられます。現在の市名は旧員弁郡の名を受け継いだものです。
町名は、江戸時代にこの地で治水や新田開発に功績を残した伊奈備前守忠次をはじめとする伊奈氏にちなみます。
市名の由来には、イバラの木が多かったことや「荊切りの里」が転じたとする説などがあり、複数の説が伝わっています。古くは「荊切」「茨城」などの表記も見られました。
「指宿」は古くは「湯豊宿(ゆほすき)」と呼ばれた地名がもとで、『和名類聚抄』には「以夫須岐」と記されました。周辺の「湯」の付く小字の多さから、温泉地に由来する地名と考えられています。
伊平屋村の地名は、古くは「ゑひや(恵平屋)」と呼ばれた島々の名に由来します。琉球王国期の文献にも見え、島の呼称が村名として受け継がれました。
今治市の地名は、古くは「いまばり」と読まれた地名に由来し、城下町として整備された歴史の中で現在の表記が定着しました。由来の詳細は諸説ありますが、地域の歴史と結びついた地名です。
「伊万里」の地名は、天平12年(740年)に藤原広嗣の乱平定のため来訪した紀飯麻呂(いいまろ)の名が「いまり」と転訛したとする説と、古代条里制「伊万ヶ里」に由来するとする説がある。
1966年の新設合併で誕生した市名で、既存の「磐城市」との重複や吸収合併の印象を避けるため、ひらがなの「いわき」が採用されました。漢字表記は石城・岩城・磐城などの歴史的変遷をたどります。
岩槻の地名は、岩をもって築いた城に由来するとされます。古くは「岩付」「岩築」とも書かれ、城下町としての歴史とともに定着しました。
岩見沢の地名は、開拓使が設けた休泊所で人々が「湯浴み」をしたことから生まれた「浴澤(ゆあみさわ)」が転化した和名由来の地名とされる。
古くは魚堵(おど)・小戸ケ浦・小戸・小津と呼ばれ、魚がよく獲れる産地であったことから魚津に改称されたと伝わります。
右京区の「右京」は平安京の官職名に由来し、区名としては1931年の京都市編入時に成立しました。区内の太秦は秦氏ゆかりの地として知られ、地名の由来も渡来系氏族との関わりが指摘されています。
宇佐市の地名は古く、少なくとも日本書紀にさかのぼる由緒ある地名とされます。語源の確定説はないものの、古代から続く歴史性が地名の特徴です。
内子町の地名は、1340年の史料に見える「内之子忠太夫」に由来するといわれます。中世の人名にちなむとされる、歴史の古い地名です。
馬路村の地名は、馬で物資を運ぶ山間の交通路に由来する説が有力です。ほかに、保元の乱で逃れた平隆長の開拓地とする伝承もあります。
神功皇后が応神天皇を出産した「産み」に由来するとされ、安産の地名として知られます。古事記・日本書紀の伝承と結びついた由来が伝わっています。
「浦襲(うらおそい)」が転じたとされ、津々浦々を支配する意の語に由来すると伝えられます。琉球の古い王都として栄えた歴史とも結びつく地名です。
浦安市の名は、明治22年の三村合併時に「浦、安かれ」と海辺の安泰を願って付けられたとされます。一説には『日本書紀』に見える「浦安の国」にちなむともいわれます。
市名は古代から見える「恵那」に由来し、郡名としても早くから用いられてきました。語源は定かではありませんが、胞衣(えな)に結びつける伝説が知られています。
聖徳太子が建立した放光寺(片岡王寺)に由来するとされる地名です。寺名が略されて「王寺」となり、町名として定着しました。
王滝村の地名は、もとは「大滝」と書かれ、王滝川に由来するとされます。後白河法皇の「皇」の字から「王」を取ったという伝説も伝わっています。
大泉町の地名は、古くからの郡名や周辺の「泉」に関わる地名要素に由来すると考えられています。由来の詳細は確定していませんが、古代の地名や郡衙の名残とする見方があります。
大熊町の地名は、古くは「苦麻」とも記され、境界地帯としての歴史の中で「大熊」へと定着したと考えられています。由来の詳細は諸説ありますが、地域の地理的・歴史的背景と結びついています。
「大阪」は上町台地北端の坂道地帯を指した「小坂(おさか)」が「大坂」へ改称され、明治時代に縁起を考慮して「阪」の字に変えた地名。
町名は「大崎郷」に由来し、江戸時代に置かれた大崎外城・大崎郷の名がもとになったと考えられます。古くは救仁(くに)と呼ばれた地域で、近世以降に大崎の地名が定着しました。
大河原村と鹿塩村の合併で成立した合成地名で、両村名の一字ずつを取って「大鹿村」となりました。いったん分村したのち、町村制施行で再び復活しています。
大館市の地名は、古くから馬市が開かれた流通拠点としての「大きな館(たて)」に由来するとされます。周辺には馬喰町など馬に関わる地名も残り、馬のまちとしての歴史を伝えています。
古語で「港」を意味する「津」に「大きな・主要な」を表す「大」を冠した地名で、琵琶湖の主要な港として栄えたことに由来する。
大野城市の地名は、天智4年(665年)に大野山(現在の四王寺山)へ築かれた朝鮮式山城「大野城」に由来します。市制施行前の大野町の名も、この古代山城にちなむものです。
大府市の地名は、獅子舞の大夫にちなむとする説が有力で、古くは「大夫」「大部」「大符」とも書かれました。市内の字名には、地形や開墾、土地の様子に由来するものも多く見られます。
「おおまち」の地名は諸説あり、干潟「大沼(おおぬま)」の縁を走る道「大沼路」が転訛したとも、広大な水田「大田」に由来するとも、聖岳の修験者が集った「待会」に由来するとも伝わる。
町名は、下渕の「淀」と初代村長・大北作次郎の「大」を合わせたとする説が有力です。万葉集の「大川淀」に由来するという説も伝わります。
小笠原村の名は、小笠原諸島の島名が小笠原氏の名に由来することにちなみます。もとは小笠原貞頼発見伝説を背景に広まった名称で、地名から名字、さらに地名へと転じた例です。
古代の官牧「岡屋牧」に由来するとされ、地名は「岡屋」「岡谷」などと表記されてきました。岡と谷の地形を表す名とみられ、諏訪湖畔の地勢と結びついた地名です。
村名は、開発者の小川九郎兵衛の名字に由来するとされます。近世の新田開発によって成立した地名で、開発者名を村名に採った例です。
肥前国風土記に記された土蜘蛛が防御に利用した「堡(おき)」(砦)が転訛した地名で、古くは「をき」と読まれた。
女川町の地名は、黒森山麓の安野平から流れ出る小川に由来するとされます。前九年の役の際に婦女子を避難させた伝承が結びつき、命を守る場所の記憶を帯びた名と伝えられています。
小山市の地名は、鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を本拠とした小山氏に由来するとされます。古くから交通の要衝として発展した歴史が、地名にも反映されています。
日露戦争後の時勢を背景に、国運の上昇を願う日の出のイメージから「旭」と名付けられた市名です。旧尾張国の地であることから「尾張」を冠しています。
遠賀町の「遠賀」は、町内の上別府などに見られる「別府」が古代の特別な土地を示す語に由来する可能性があり、地域の開発史と結びついていると考えられます。町名そのものは郡名を受け継いだもので、遠賀川流域の地名として定着しました。
鎌倉時代に北条時頼が当地の最明寺に宿泊したという伝承にちなみ、「御宿」の名が生まれたとされています。町役場では、この説が広く町民に伝えられている由来として案内しています。
恩納村の地名は、1673年に恩納間切として成立した行政地名に由来します。由来の語源そのものは明確ではありませんが、琉球王国期の地域区分の名が村名として定着しました。
海津市の名は、旧海津郡に由来し、さらに海西郡と下石津郡を合わせた合成地名です。海西の「海」は古く尾張国海部郡にさかのぼるとされます。
笠置町の地名は、笠を石の上に置いたという伝承に由来するとされます。笠置山の信仰や修験の歴史と結びついた地名です。
笠松町の地名は、旧称「傘町」を改めたもので、陣屋移転の際に「笠松」と名付けられたと伝わります。木曽川沿いの港町として発展し、江戸期には笠松陣屋が置かれました。
神武天皇が畝傍山の東南に建てた「橿原宮」に由来するとされる市名です。記紀の伝承に結びつく建国ゆかりの地として知られます。
交野市の地名は、片側が原野だった「片野」に由来する説が有力です。市内の天野川や星田には、星や七夕にまつわる伝説が色濃く残っています。
勝山市の地名は、1574年の一向一揆が平泉寺を攻め落とした際、拠点とした村岡山を「勝ち山」と呼んだことに由来すると伝えられます。のちに「勝山」の字が当てられ、市名として受け継がれました。
戦国期の落人伝承に由来し、松本勘解由介がこの地を「葛尾」と名付けたと伝えられます。村名は葛尾城の名を背景にした伝説と結びついています。
嘉手納町の地名は、古くからの集落名「嘉手納」に由来します。町域は沖縄本島中部の海岸沿いにあり、歴史的には村名・町名として受け継がれてきました。
加東市の市名は、旧加東郡に由来します。加東郡は古代の加古郡が東西に分かれて成立した郡名で、その名を受け継いで市名となりました。
神奈川区の地名は、古くは現在の区域にあった「神奈河」や「神奈川宿」に由来します。県名の由来にもなった歴史ある地名で、陸海交通の要衝として知られてきました。
金沢区の「金沢」は、古くは「かねさわ」とも読まれ、鎌倉時代に鍛冶職人が移り住んだことに由来する説が知られます。区内の朝比奈・大道・洲崎などは、鎌倉や金沢八景に結びつく歴史を今に伝えています。
可児の地名は、宮中の掃除を担った掃部寮(かにもり)に由来する説が有力とされます。蟹や可兒氏に結びつける説もありますが、定説には至っていません。
町名は、古くから金山城や金山宿など「金山」の地名が用いられてきたことに由来すると考えられます。周辺の山や峠、宿場町としての歴史と結びついた地名です。
鎌倉の地名は、山に囲まれた釜底状の地形に由来する説が有力です。ほかに屍蔵や神庫など、さまざまな伝承も伝わっています。
剱岳の道中で三の付く日に開かれた「三日市」が、土地の上で行われたことから「上の市」と呼ばれ、上市へ転じたとされます。
古くからの地域名「かみじま」に由来し、藩政期の「上」「下」の区分や三島七島の「上島」に結びつくとされます。
上ノ国町の地名は、かつて北海道南部の日本海側を「上ノ国」、太平洋側を「下ノ国」と呼んだことに由来し、交易拠点として栄えた歴史が地名として残ったものです。
加美町の「加美」は、古くは周辺の地勢や地域のまとまりを表す呼称として成立したとみられます。町内には中新田や薬莱山など、条里制や信仰と結びつく地名・景観が残ります。
亀岡市は、もとは亀山と呼ばれ、明治2年に伊勢の亀山との混同を避けるため亀岡へ改称されたと伝えられます。亀山の名は明智光秀の時代にさかのぼるとする説が有力です。
市名は、市域を流れる加茂川に由来し、旧地名の「加茂」や『倭名類聚抄』にみえる加茂郷との関連も指摘されています。明治22年の町村合併時に、史的所伝を踏まえて鴨川町と名付けられました。
「唐津」は「唐(大陸・朝鮮半島)への津(みなと)」を意味し、古代から大陸との交流の要衝として栄えた港湾都市に由来する地名。
刈谷の地名は、古くは「借屋」「苅屋」などと記され、狩谷出雲守に由来するという伝承もあります。史実上の初見は1409年で、由来は明らかではないとされています。
川越市の地名は、入間川を越える土地を表す「河越」や、氾濫で肥沃になった土地を表す「河肥」に由来するという説があります。中世には河越氏の名で知られ、のちに「川越」と表記されました。
朝明川の北と南の村々が合併し、文字どおり「川を越えて」一つの村になったことから「川越」と名づけられました。
「神埼」の地名は肥前国風土記に記され、景行天皇の巡幸の際に悪さをする神を鎮めたことから「神幸(かみさち)の里」と呼ばれ、後に「神埼」となったとされる。
「喜界」は、1645年頃から見られる表記で、鬼界島・奇界島・貴海島などの異表記の中から、縁起のよい「喜」の字が定着したとされます。
建武元年に和田氏がこの地へ城を築き、「岸の和田氏」と呼ばれたことが岸和田の地名の起こりとされています。城下町として発展し、現在の市名として定着しました。
五市合併の新市名として、既に地域で広く使われていた「北九州」から採られた名称です。九州北部を指す一般名でもあり、地域性と認知度を兼ね備えています。
北中城村の地名は、もとは中城の北側に位置することを示す「北中城」に由来します。村内の各集落名には人物名や地形、渡し場などに由来するものが多く残ります。
北広島市の地名は、明治時代に広島県から入植した開拓団に由来する。市制施行時に広島市との重複を避けるため「北広島市」となった。
広島県から北海道へ移住した人々が開拓地に「広島」と名づけた流れを受け、広島市との区別のために「北」を冠して町名が定着しました。
北見市の名称は、松浦武四郎が命名した旧国名「北見国」に由来し、1942年に野付牛町が市制施行する際に改称された。
木津川市の地名は、古代に木材の陸揚げ港として栄えた「木津」に由来し、市名は市域を流れる木津川にちなみます。2007年に木津町・加茂町・山城町の合併で誕生しました。
市名は中世以来の「木付(きつき)」に由来し、江戸時代に「杵築」の字が用いられるようになりました。城下町として発達した歴史を持つ地名です。
1567年に織田信長が稲葉山城(現・岐阜城)へ入城した際、禅僧・沢彦宗恩の進言を受け、中国の聖地「岐山」と「曲阜」から一字ずつ取って命名した雅称に由来する。
「基山」の地名は奈良時代の『肥前国風土記』に「基肄之山(きのやま)」として記された山名に由来し、1889年に村名として正式に採用された古代からの地名。
京極町の地名は、明治30年に旧丸亀藩主・京極高徳子爵が現在の町内で京極農場を開いたことに由来します。のちに駅名や村名へ受け継がれ、現在の町名として定着しました。
行田市の地名は、旧市名の「忍」とともに、古くからの地名「行田」に由来しますが、その起源は諸説あり確定していません。市域の大字埼玉は「埼玉県」名発祥の地として知られます。
京田辺市の「田辺」は、もとは田辺氏の館があったことに由来し、「京」は京都府南部の市であることや都を意識して付されたとされます。
「京都」は「みやこ(京)の土地(都)」を意味する普通名詞が固有名詞化したもので、794年の平安遷都に始まり平安時代後期に定着した地名。
旧上清戸村・中清戸村・下清戸村の「清」と、柳瀬川の「瀬」を合わせた地名とされます。あわせて、ヤマトタケルが「清き土なり」と言ったという清戸の伝説も伝わります。
霧島の名は、霧に包まれた霧島連山が島のように見えることに由来するとされます。天孫降臨の伝承に結びつく説も伝わっています。
九十九里町は、町名が九十九里浜の名に由来するとされます。九十九里浜の長大な海岸線を背景に、合併時の新命名として定着しました。
松の木に星が降ったという伝承から「くだまつ」と呼ばれるようになったとされます。百済津(くだらつ)に由来する説も伝わる地名です。
空海が母を月に九度訪ねたという慈尊院の伝承にちなむ地名とされます。ほかに地形や古語に由来する説も伝わります。
九戸村の「九戸」は、糠部地方の「戸(へ)」に由来するとされ、馬産や貢馬に関わる広域的な区画名だったという説が有力です。
熊野市の「熊野」は、紀伊半島南部の熊野地方に由来する地名です。古くは「隈野」などの意味合いで、奥まった土地や山あいの地を表す説が知られています。
「熊本」は元来「隈本(くまもと)」と表記され、低地と高地が入り組んだ地形や白川の曲がりくねった流れを意味するとされる。1607年に加藤清正が「隈」の字を嫌い「熊本」に改字した。
久世郡の「久」、御牧村の「御」、佐山村の「山」を合わせて命名された町名です。1954年の合併時に生まれた新しい地名で、各旧村の名を一字ずつ受け継いでいます。
久米島町の地名は、古く『続日本紀』に見える「球美(くみ)」に由来すると考えられています。琉球方言で「米」を意味するクミと結びつけ、米どころの島を表したとされます。
倉敷市の地名は、年貢米などを集めておく「倉敷地」に由来するとされます。蔵屋敷が転訛したとする説もあり、港町・集散地としての性格を反映した地名です。
百済救援に参加した筑紫国造が「鞍橋君(くらじのきみ)」と称されたことに由来し、その呼び名が転じて「くらて」になったと伝えられます。
倉吉市の地名は、岩倉城落城に伴う移住伝承に由来し、「倉」と「吉」を取ったとする説が知られています。ほかに、住吉神社のある神坂と一体の町になったことにちなむ説も伝わります。
栗原市の地名は、旧栗原郡の名を受け継いだもので、郡名の由来ははっきりしません。市内の金成では、金が産出した土地や祈願成就にちなむ説が伝わっています。
黒石市の地名は古くから記録があり、由来ははっきりしないものの、古い呼称が転化したとする説が伝わっています。
芸西村の地名は、村内の旧地名「和食」や「琴ヶ浜」などとともに、山と海にまたがる地域の歴史の中で定着しました。特に「和食」は古名として知られ、地名の由来には諸説があります。
古代の合志郡に由来する地名で、713年の「好字」使用の詔により「合志」の表記が定着したと考えられます。市名は長い郡名の歴史を受け継いだものです。
「高知」の地名は「河中山城(こうちやまじょう)」に由来し、水害への恐れから「河中」の字を避けて「高智」と改め、さらに「高知」と表記された。川に囲まれた地形と水害の歴史が名前に刻まれている。
江南区は、新潟市の南東部に位置し、旧亀田町や横越町などの地域を含む行政区です。区名は新潟市が「新潟の南にある区」という意味合いで名付けたもので、地形や旧来の地名そのものに由来するものではありません。
木曽川を中国の長江に見立て、その南側に位置することから「江南」と名付けられました。1954年の合併時に新たに採用された市名です。
「甲斐国の府中(国の中心地)」を略した「甲府」に由来し、室町・戦国時代に武田氏が城下町として整備したことで定着した行政由来の地名である。
「神戸(こうべ)」は奈良時代の律令制で生田神社に租税・労役を提供した民戸「神封戸(かんべ)」に由来し、「かんべ」が転訛して「こうべ」となった地名。
八ヶ岳の水蒸気爆発でせき止められてできた湖に由来し、残った相木湖を「小さい海」と見立てて名付けられたと伝わります。
古賀市の地名は、古くからの「古賀」という地名を受け継いだもので、周辺の古い集落名や宿場町としての歴史と結びついて定着したと考えられます。
武蔵国分寺に由来する地名で、奈良時代の国分寺建立の詔に基づく寺院名が市名のもとになりました。
古くは「五十目」と呼ばれた地名が、町制施行時に縁起の良い字へ改められて成立した名称。
御所市の地名は、葛城川の瀬に由来する説や、孝昭天皇の御諸(みむろ)が転じたとする説などが伝わります。いずれも古代の地形や信仰と結びついた由来と考えられています。
徳川家康が当地に御殿の造営を命じたことに由来し、御殿の周辺に新町が形成されたことで「御殿場」と呼ばれるようになりました。
五戸町の地名は中世の「糠部五戸」などに見られる「五戸郷」に由来し、地域を区分する「戸(行政・軍事・居住単位)」に基づく数詞地名と考えられている。
小林市の地名は、中世に築かれた小林城とその城下に形成された集落に由来するとされる。古くは夷守や三ノ山などの呼称が用いられていた。
本願寺日高別院が「御坊さん」と呼ばれたことに由来し、その呼称が町名・市名として定着しました。寺内町として発展した歴史が地名に色濃く残っています。
小松市の地名は、花山法皇の別荘跡にちなむ「園の小松原」説や、平重盛の小松寺に由来する説などが伝わります。中世には「もとおり」とも呼ばれ、のちに小松の名が定着しました。
古代からの佐伯氏に由来する地名で、もとは「さえき(サヘキ)」と読まれていたとされます。大正5年に表記の読みが「さいき」へ改められ、現在の呼び名が定着しました。
西都市の市名は、西都原古墳群をはじめとする古代日向の中心地としての歴史を背景に、「西の都」を意味する名称として成立したとされる。
町名は、蔵王山に勧請された蔵王権現に由来すると伝えられます。町内の矢附には源義家の矢にまつわる地名伝説も残ります。
堺区の地名は、昔この地が和泉国と摂津国の境にあったことに由来します。区内の町名には、港町・織物・寺社・職人など堺の歴史を映す由来が多く残ります。
坂井市は、旧坂井郡の4町が合併して誕生した市で、郡名の「坂井」を引き継いでいます。郡名の由来は古代の郡域名にさかのぼると考えられますが、詳細は史料上はっきりしません。
栄町は、合併によって誕生した町名で、「栄える」という縁起のよい語を用いた新しい自治体名です。町内の安食の地名には、五穀豊穣を祈願して「食に安んずる」ようになったことに由来する伝承があります。
栄村の村名は、明治期に成立した堺村が、のちに「栄村」へ改称されたことに由来します。旧名の「堺」は境界地を示す地名で、現在の村名は新たな発展を願う改称とみられます。
佐世保の地名は諸説あるが、狭い川瀬を意味する「狭瀬」と中世の行政単位「保」が結びついたとする説や、シャシャンボの古名「サセブ」に由来する説が広く知られている。
幸手市の地名は、古くから伝わる「薩手(さって)」に由来するとされ、日本武尊の伝承と結び付けて語られています。宿場町として栄えた歴史の中で地名が定着しました。
古代の地名「さよ」に由来し、『播磨国風土記』では「五月夜(さよ)」に植えたのかという説話で説明されます。のちに「さよう」と読まれるようになり、現在の町名として定着しました。
明治22年に立野・勢野・南畑の三村が合併して成立したことから、「三つの郷」を意味する三郷の名が生まれました。
三戸町の「三戸」は、平安時代後期に糠部郡が九つの地区に分けられた際の「三番目の戸」に由来するとされます。戸は牧場の木戸や地区を表す語と考えられています。
山武市の市名は、旧郡名の山武郡に由来する合成地名です。山辺郡と武射郡の名を合わせたもので、読みは旧来の「さんむ」を受け継いでいます。
椎葉村の地名は、那須大八郎宗久が椎の葉で仮屋の屋根を葺いたことに由来すると伝えられる。平家伝説と深く結びついた歴史的な地名である。
能登半島西岸の志賀町は、約1300年前に福岡の志賀島から阿曇族の一部が移り住んだことに由来すると伝えられます。海の民との結びつきが強い地名です。
色麻町の地名は、奈良時代の史料『続日本紀』に見える「色麻柵」にさかのぼるとされます。古くから「しかま」と読まれ、軍事拠点として記録された歴史ある地名です。
市名は新編武蔵風土記稿などに見える「志木郷」にちなむとされ、明治7年の合併後に志木宿と名付けられたことが由来です。現在の市名は昭和45年の市制施行時に定められました。
四條畷市の名は、南北朝期の古戦場「四条縄手(畷)」に由来する説と、四條畷神社の名が広まって市名になった説が伝わります。
明治2年(1869年)に「府中」から改称された際、近くの賤機山(しずはたやま)に因んで「賤ヶ丘」とする案が「賤(いやしい)」を理由に修正され、「静岡」と命名された。
宍粟市の地名は、奈良時代の『播磨国風土記』に見える宍禾郡に由来すると考えられています。7世紀末の木簡にも「宍粟」の表記があり、古くから使われていた地名です。
品川区の地名は、古くから品川宿や品川湊として知られた「品川」に由来します。現在の区名は、旧品川町などの地域名を受け継いで定着しました。
新発田市の地名は、古くからの地名「しばた」に由来し、語源の詳細は定説がありません。地名としては中世以前から用いられ、城下町として発展しました。
芝山町の名称は、合併時に知名度の高い芝山仁王尊観音教寺と、明治2年に設置された柴山藩を考慮して名付けられました。
渋川市の地名は、旧市域の渋川に由来し、周辺には「吹屋」など精錬・鋳造に関わる地名も見られます。市域は宿場町として発展した交通の要衝で、地名の背景にも地域の歴史が反映されています。
アイヌ語で「清澄な川」を意味する語の意訳に由来し、駅逓名から町名へと定着しました。昭和期に清水村から清水町へ改称・町制施行されています。
吉野川支流・秋野川沿いの市場町で、上市に対する「下の市」を意味する地名です。もとは「秋川」「秋野河」とも呼ばれ、後に下市の名が定着しました。
伊豆半島南東端の海辺にあることから「下手の田」、すなわち低い場所の田地を意味する「下田」に由来するとされます。古くから良港として栄え、地名は地形と港町としての歴史の両面を映しています。
下関市の地名は、関門海峡の要衝にあった「関」に由来し、古くは「赤間関」と呼ばれました。鎌倉時代には「下関」の名称が見られ、近代に現在の市名へ改められました。
庄内町の地名は、庄内地方の「庄内」に由来し、さらに大泉荘の内側にあたる地域という説が有力です。庄内は荘園名に結びつく歴史的な地名として伝わっています。
福岡市の行政区名で、福岡城の築城に伴って名付けられた「福岡」の方角を示す地名です。市中心部の南側に位置することから「城南区」と呼ばれます。
昭和区の区名は、1937年に元号の「昭和」から採られました。旧御器所村内での区名をめぐる対立を避けるため、中立的な名称として採用されたとされています。
昭和町の地名は、元号の「昭和」に由来し、1942年の合併時に公募で名付けられたとされます。町公式サイトでは、甲府盆地の水害と水利用の歴史の中で形成された各集落の由来も紹介されています。
昭和2年の合併で誕生した村名で、元号の「昭和」にちなんで命名されました。奥会津の山村として、からむし栽培の伝統でも知られます。
昭和村は、昭和の時代に誕生した合併村で、元号の「昭和」にちなんで名付けられました。群馬県利根郡に属し、近代の自治体名として定着しています。
白石市の地名は、白石城の城下町として知られる「白石」に由来します。白い石が目印となった地名とされ、地域の歴史と深く結びついています。
甲州街道の宿場として元禄年間(1698年頃)に内藤家屋敷跡へ新設されたことに由来し、「新しく設けられた宿(宿場)」を意味する地名である。
新城市の名は、旧来の「新城(しんじょう)」と区別するため、奥平信昌が築いた新しい城を「新城(しんしろ)」と呼んだことに由来します。戦国期の城名が市名として定着しました。
奈良県十津川村の大水害を受けて移住した人々が開いた町で、「新十津川」は母村・十津川に由来します。町名には、移住者が新天地で再出発する思いが込められています。
昭和22年の本所区と向島区の合併時に新たに命名された区名で、隅田川堤の通称「墨堤」の「墨」と「隅田川」の「田」を取ったものです。
町名の「精華」は、教育勅語の「国体の精華」に由来する瑞祥地名です。「美しい花」の意味もあり、町の発展への願いを込めて採用されました。
宝積院(諏訪山)の縁起により、僧侶が山に籠もった「聖籠山」に由来すると伝えられる地名です。
不破関のあった原野を意味する地名で、古代の関所「不破関」に由来するとされます。関ケ原の戦いの舞台としても知られ、交通の要衝として発展しました。
関所が置かれた地に由来するという説が有力ですが、川をせき止めた場所や狭い地形を表す「セキ」に由来するとも考えられています。
世羅町の地名は、古くこの地を治めたとされる世良彦命に由来するという伝承があり、町名はその「世羅」によるとされています。合併前の旧町名にも受け継がれ、地域名として定着しました。
伊達政宗が慶長5年(1600年)頃に国分氏の居城「千代城」を「仙臺」に改めた地名。「仙臺」は中国・唐代の漢詩に由来し、仙人が住む高台・聖域を意味する。
相馬市の地名は、平将門を祖とする相馬氏に由来します。中村城を本拠とした相馬氏の城下町として発展し、地名と歴史が深く結びついています。
添田町の地名は、岩石山に移り住んだ新羅国の曽褒里神(ソホリ)が転化して「ソエダ」になったという伝承がある。ほかに、吾勝野がアカ村・ツノ村に分かれた話など複数の地名伝説が伝わる。
台東区の名称は、上野の高台を表す「台」と、上野の東に位置する浅草などを表す「東」を組み合わせた瑞祥的な新命名です。文字の意味と地勢の両方が込められています。
高崎市の地名は、和田の地に城を築いた井伊直政が、白庵の進言により「成功高大」の意味を取って改めたと伝えられます。城下町としての発展とともに定着した地名です。
多賀城市の地名は、古代の城柵・多賀城に由来します。「多賀」は「賀(よろこび)が多い」という意味を持つとされ、国家の安寧や繁栄を願う名と考えられています。
高取町の名は、高取山に築かれた高取城と、その山名に由来します。山名は古くは「鷹鞭山」とも呼ばれ、鷹や神に通じる語とする説も伝わります。
高梁市の地名は、高梁川の名に由来します。高梁藩が川の名を取って改称したことが、現在の市名のもとになりました。
「高松」の地名は、平安時代の地誌「和名類聚鈔」に「多加津の郷」として現れる古い地名に由来し、天を突くような大きな松があったことにちなむという説が有力である。
高山市の地名は「高い山」の意味とする説のほか、「多賀山」が転じたとする説が有力です。城と地名の変遷を経て、江戸時代から見られる名称として定着しました。
「高来(たく)」を語源とし、栲の木が多く生えた場所を意味するとも、古代朝鮮半島の高麗(高句麗)からの渡来人に関わる地名とも伝えられる。
竹田市の「竹田」は、城下町としての竹田に由来するとされ、周辺の牧馬・狩猟の伝統や草原地帯の歴史と深く結びついています。現在の市名は平成17年の合併で成立しました。
竹原の地名は、少なくとも1090年の「安芸国竹原荘」に見えるのが初見です。荘園名として成立した地名で、のちに竹原市の市名として受け継がれました。
太宰府市の地名は、古代の役所「大宰府」に由来し、中世以降は「太」の字が広く用いられて定着しました。歴史的な官衙の名を受け継ぐ、由緒ある地名です。
南北朝時代に菊池武光が刀を洗ったという伝承に由来するとされる地名です。表記は「太刀洗」と「大刀洗」が混在しています。
福島県伊達市の地名は、旧陸奥国伊達郡に由来し、伊達氏発祥の地であることにちなみます。郡名は奥州合戦後に常陸入道念西が伊達郡へ移り、伊達氏を名乗ったことに始まります。
伊達市の地名は、明治初期に北海道へ移住した亘理伊達家に由来する。伊達邦成と家臣団による開拓を背景に成立した地名である。
館山市の地名は、城山に領主の館があったことから「館の山」と呼ばれたのが由来とされます。里見氏の城下町として発展し、昭和14年の市制施行時に市名として採用されました。
棚倉町の地名は、城下町としての「棚倉」に由来し、町名としては近世以来の歴史を受け継いでいます。由来の詳細は諸説ありますが、町の歴史と城下町文化に深く結びついた地名です。
田野町の地名は、奈半利川の治水と開墾によって生まれた「田野郷」に由来すると伝えられます。原意は段丘状の地形を表す「棚」に関わるとする説もあります。
平安時代中期ごろ、熊野修験者が当地に流入し、紀伊国の地名にちなんで集落名をつけたことが由来とされます。なお「原」は、丘陵地の樹木の育たない土地を指す語です。
「太良」の地名は肥前国風土記の「託羅(たら)郷」に由来し、景行天皇が「食物が豊かに足りる(豊足・たらい)」と称えたことで命名されたとする伝承がある。
篠山の地名は、築城をきっかけに定着したとされ、「笹の山」説と「神聖な場」を意味する説が伝わります。2019年に市名へ「丹波」を冠し、丹波篠山市となりました。
智頭町の地名は、古くから因幡街道と備前街道が交差する交通の要衝として発達した地域名に由来すると考えられます。町は森林資源に恵まれ、宿場町としても栄えました。
千歳市の地名は、もともとのアイヌ語地名「シコツ」を改称したもので、「鶴は千年、亀は万年」の故事にちなみ「千歳」と名付けられた。
村名は旧村名の千早村と赤阪村を合併して生まれた合成地名です。楠木正成ゆかりの千早城や赤坂城にちなむ地名として知られます。
北谷町の地名は、古い地名「きたたん」に琉球の行政区画を表す「まきり」が付いた「きたたんまきり」に由来し、のちに漢字で「北谷」と表記されるようになりました。
千葉市の中心部に位置することから、区名は公募で「中央」と定められました。市名の「千葉」は古くからの郡郷名に由来し、区名はその中心性を示す瑞祥的な命名です。
多摩川で晒した布を「調」として朝廷に納めたことに由来する地名です。古代の租税と多摩川流域の布づくりが結びついた名とされています。
千代田区の区名は、江戸城の別名「千代田城」にちなむもので、城を中心に発展してきた地域性を踏まえて名付けられました。麹町区と神田区の統合にあたり、昭和22年に新しい区名として採用されました。
明治14年に樺戸集治監の初代典獄・月形潔の姓にちなみ、月形村として名づけられたのが由来です。人名由来の地名として知られます。
古語で「港」を意味する「津」に由来し、「安濃津(あのつ)」の上略形として江戸初期に定着した地名。
都筑区の名は、奈良時代から昭和14年まで存在した都筑郡に由来します。区名には、歴史ある地名を継承するとともに「都を筑く」という新しいまちづくりの願いも込められています。
景行天皇が大泊港に船をつながれたという故事に由来すると伝えられる町名です。港に船をつないだことから「津奈木」と呼ばれるようになったとされます。
津野町の地名は、町内の津野氏に由来するとされる地名です。中世の在地領主の名を受け継いだものと考えられます。
津山の地名は、津山藩主・森忠政が鶴山に築城したことに由来するとされます。城下町として発展した歴史が、現在の市名に受け継がれています。
区名は鶴の飛来伝承や低湿地のツル群生地説などがあり、昭和49年の分区時には鶴見緑地にちなむ命名も行われました。
天童市の地名は、舞鶴山に天から童子が舞い降りたという伝承に由来するとされます。のちに天童神社の信仰と結びつき、現在の表記が定着しました。
村名は、合併前の村松村・石神村が組合立東海中学校の「東海」を採ったもので、さらにその「東海」は藤田東湖の詩句に由来します。
地名は「鴇が根(ときがね)」に由来するとされ、最福寺背後の山嶺がトキの頭に似ることから転訛したという説が有力です。江戸期には徳川家康の御成を機に「東金町」と称したと伝えられます。
アイヌ語の「トオマナイ(沼・に入る・川)」に由来するとされ、のちに「当麻」の漢字が当てられました。屯田兵による開拓とともに地名が定着した町です。
旧野根町と旧甲浦町の合併で成立し、両町が太平洋を東に望むことから「東洋町」と名付けられました。町名は新町名候補の協議を経て決定したものです。
「徳島」は天正13年(1585年)に蜂須賀家政が吉野川河口の三角州に城を築いた際に命名した地名。旧称「渭津」から改名し、「島」は川に囲まれた三角州の地形を、「徳」は縁起の良い美称を表す。
土佐町の町名は、旧国名の土佐に由来します。土佐の語源は諸説ありますが、古い地名土佐郷や、入江状の地形に関わる説が有力です。
土庄町の「土庄」は、古くからの地名を受け継いだもので、町名としては小豆郡土庄村・土庄町の成立とともに定着しました。由来の詳細は確定的ではありませんが、地域の歴史的呼称がそのまま行政地名になったと考えられます。
近世の新田名に由来し、「飛び離れた島」を意味する地名とされます。干拓前の地形を表した呼び名が、現在の村名として定着しました。
富岡市の地名は、旧七日市県の県庁所在地だった富岡の地名に由来します。市名としては、地域の中心集落名がそのまま採用されたものです。
富岡町の地名は、町内の旧村名「富岡」に由来します。由来の詳細は資料上で明確ではありませんが、周辺の地形や集落名を基に定着したと考えられます。
三山時代に汪応祖が漫湖を望む高台にグスクを築き、「とよみ城」と美称したことに由来するとされます。のちに「とみぐすく」へと読みが変化しました。
明治22年の町村制施行で、十三の里にちなむ「富里村」として成立し、のちに市制施行しました。地名は開墾の順序と美称を組み合わせたもので、七栄や十倉なども開墾順に由来します。
越中守護所から見て呉羽丘陵の外側にある地域を「外山(とやま)」と呼んだことに由来し、安土桃山時代に佐々成政の入城を機に縁起の良い「富山」の字が定着した。
豊明市の地名は、旧村名の「豊倉屋」と元号の「明治」から一字ずつ取ったとされ、宮中行事の「豊明節会」にも因むと伝えられます。
豊中市の地名は、明治22年に豊島郡の中央に位置することから「豊中村」と名付けられたことに由来します。のちに町制・市制を経て現在の市名となりました。
豊橋市の地名は、豊川に架けられた橋に由来し、明治初期に藩名改称の候補として採用された「豊橋」が定着したものです。旧称の吉田や今橋、関屋との関係も伝わっています。
明治39年に豊場村と青山村が合併して成立した地名で、両村名の一字ずつを取って「豊山」と名付けられました。あわせて「物産豊かに山をなす」というめでたい意味合いも込められたとされます。
「取手」は、戦国時代にこの地へ築かれた砦に由来するという説が有力です。ただし、平安時代末の史料にも周辺地名が見えるため、正確な起源は断定されていません。
富田林市の地名は、寺内町の成立にあわせて「富田の芝」と呼ばれた荒地を開発し、富田と林を合わせた名として定着したとされます。
市名は、延暦3年に桓武天皇が造営した都「長岡京」に由来します。もとの「長岡」は向日丘陵を指し、地形にちなむ名です。
市名は市内を流れる那珂川に由来します。古くは「儺川」とも呼ばれ、さらに古代の儺県の名を受けた地名と考えられています。
横浜市中区の地名由来は、吉田新田や外国人居留地の埋立・町名整理に深く関わります。町名は縁起名や人名、地形名など多様な由来を持ちます。
堺市の中部地域にあたることから「中区」と命名。2006年の政令指定都市移行に際して設置された。区内には行基ゆかりの土塔・八田・深井など歴史的地名が多く残る。
平安末期に古代日野郷の中心が移ったことで「野の中心」と呼ばれたのが由来とされます。千曲川流域の扇状地に位置する地形とも結びつけて説明されます。
長浜市の地名は、もとは「今浜」と呼ばれていた地を、天正3年頃に羽柴秀吉が改称したと伝えられます。『長』を織田信長の名にちなむとする説もありますが、確証はありません。
中原区の名は、江戸時代に小杉に御殿と陣屋が置かれ、中原街道の中継地として栄えたことに由来します。街道名の「中原」も、平塚の中原御殿にちなむとされています。
流山市の地名は、上州赤城山の一部や赤城神社のお札が洪水で流れ着いたという伝承に由来するとされます。市名は水害と深く結びついた「流れ山」のイメージから生まれたと伝えられています。
平安時代末期の荘園名「那古野荘(なごやのしょう)」に由来し、崩壊地形「ナギ」の野原を意味する地形語源説が有力とされるが、複数の説が並立し定説はない。
常陸国風土記では、ヤマトタケルが地形の入り組んだ様子を「行細(なめくわし)」と表したことに由来するとされます。別説では、古代アイヌ語・縄文語系の「泉のほとり」を意味する語に結びつける見方もあります。
「習志野」は明治天皇が陸軍大演習の際に命名した「習志野原」に由来し、市名は1954年の市制施行で採用されました。
南関町の地名は、古くこの地に置かれた関所「南の関」に由来するとされます。交通の要衝として発展した歴史が、町名に今も残っています。
市名は「南国」の字を用いるが、読みは「なんこくし」。合併時に「国」を「コク」と読ませたのは、「ごく」が「獄」を連想させるのを避けたためとされる。
南部町は、南部氏の本拠地として発達した歴史に由来する町名です。町名には中世の南部藩発祥の地としての性格が色濃く残っています。
甲斐源氏の加賀美遠光の三男・光行がこの地を領し、「南部」の地名を姓としたことに由来します。南部氏発祥の地として知られ、町内にはゆかりの史跡が残ります。
南牧村の地名は、古くからの郡名・地名の流れを受ける群馬県域の一部として成立したもので、村名自体の由来は資料上では明確に確認できません。現時点では、群馬県の古代地名「群馬(くるま)」に連なる地域名として理解するのが妥当です。
西粟倉村は、古くは「粟倉荘」に由来する地名で、周辺の荘園名や村名を受け継いで成立しました。明治の町村制施行時に西側の集落をまとめて村名となったと考えられます。
西桂町の「桂」は、明治8年に複数の村が合併して桂村となった際、桂川にちなむと考えられています。桂川の名は、都留郡の「つる」との関連や、桂の木にあやかったとする説があります。
西郷村の地名は、明治22年の町村制施行で山根14カ村が合併して成立した際の村名です。由来の詳細は検索結果からは明確に確認できず、現時点では合併時に定められた地名として扱われます。
弘法大師空海が二荒山の「二荒」を「にこう」と読んだことに由来し、「日光」の字が当てられたと伝えられます。
二戸市の「二戸」は、糠部地方の「戸(へ)」地名の一つで、牧場や行政区画に由来すると考えられています。数字を冠した連続地名の一部として知られ、由来には複数の説があります。
二本松市の地名は、古くから「二本松」と呼ばれてきた土地名に由来します。市勢要覧では万葉の時代から名が知られていたとされ、城下町として発展した歴史とともに定着しました。
町名は町内を流れる仁淀川に由来し、川名は「にえどの(贄殿)」がなまったとする説が伝えられています。清流と鮎の産地としての歴史が背景にあります。
沼田市の地名は、単純な「沼」地形に由来するとは考えにくく、中世以来この地に勢力を持った沼田氏にちなむとされます。城下町として発展した歴史が、地名の定着に影響しました。
明治27年の開拓に尽力した沼田喜三郎翁の名字に由来するとされます。移住者の開拓史とともに、夜高あんどん祭りにもその縁が受け継がれています。
根羽村の地名は、古くは「ねばね」とも読まれた記録があり、現在の呼称「ねば」に定着しました。由来の確定的な説明は見つかっていませんが、歴史的には三河国との結びつきが強い地域です。
地名は、懐良親王の「王方(のうがた)」に由来する説と、旧来の小村名「直方(能方)村」の読みを受け継いだ説が伝わります。のちに縁起のよい「直方」の字が当てられました。
野々市市の地名は、古くは「野市」とも書かれ、市が立つ場所を示す「市庭」に由来すると考えられています。北陸道と白山大道が交わる交通の要衝として栄えた歴史が、地名にも反映されています。
延岡の地名は、五ヶ瀬川流域に形成された長く延びる岡状の地形に由来するとされる。古くは「県(あがた)」と呼ばれ、近世に延岡城の築城とともに現在の地名が定着した。
古代の加賀国能美郡に由来し、現在の市名へ受け継がれた地名です。「能」は「成し得る力」、「美」は自然の美しさを表すとされます。
函館の地名は、室町時代に築かれた箱形の館に由来する「箱館」に始まり、明治期に現在の「函館」表記へ改められた。
橋本市の地名は、応其上人が紀の川に橋を架けたことに由来すると伝えられます。橋のたもとにできた町として「橋本」と呼ばれ、その名が現在まで受け継がれました。
南部氏の牧場管理区分「戸(へ)」の第八番目にあたる土地であったことに由来する地名。
市名は、坂上田村麻呂が戦勝を祈願した八幡大菩薩にちなむ「八幡平」に由来するとされます。もとは山名で、神仏への感謝を込めて名づけられたと伝えられています。
地名は、中世以来この地で毎月20日に開かれた「廿日(はつか)の市」に由来します。厳島神社の門前・宿場として市が定着し、現存する古い「市」地名の一つとされています。
東吾妻町の「吾妻」は、日本武尊が東方を指して「吾嬬(あづま)」と呼んだ伝説に由来するとされます。町名は吾妻郡の東部に位置することを示す地名でもあります。
町名の「東浦」は、古くは小川・小河とも書かれ、1499年に緒川城主を訪ねた歌にちなみ「緒川」と改められたと伝わります。町内には飯喰場や唐治屋敷など、歴史や生業を映す地名も残ります。
神楽村の東側に位置したことから「東神楽」と名付けられました。もとの「神楽」は、アイヌ語の意訳に由来するとされています。
岡山市東区の地名は、古代の阿知・大伯などの地名や渡来系氏族の伝承を背景に、地域ごとの旧地名を引き継いで成立しています。
市名は、黒目川の旧称「久留米川」に由来するとされ、福岡県久留米市との混同を避けるため「東」を冠して成立しました。
「彼杵(そのぎ)」は古代の肥前国の地名で、肥前国風土記に記された「具足玉国(そないだまのくに)」が転訛したとする説が有力。「東」は大村湾の東側に位置することに由来する。
旧久志村の東側の集落が分村し、太平洋に面して朝日が昇ることから「日の出るところ東なり」と名づけられたとされます。
市名は、もともとの「松山」に方角を示す「東」を付け、四国の松山市との混同を避けるために定められました。1954年の市制施行時に現在の市名となっています。
東村山市の地名は、村山地方の東に位置することから「東村山」と名付けられたとされています。明治22年の町村制度施行時に、方位を取った命名が採用されました。
光市の市名は、戦時中に海軍工廠を置く際、呉と同じ一文字地名を望んで周南町から改称されたことに由来します。のちに光町から光市となり、縁起のよい市名として定着しました。
町名は町内を流れる氷川に由来し、氷川流域の地名として定着しました。氷川は古く『火の国』ゆかりの地ともされ、地域の歴史と深く結びついています。
日出城の城下町として発展した地名で、町名は「日が出る」ことを連想させるが、由来の詳細は史料上の確定が難しい。
日野市の地名は、烽火台の「火野」から転じた説など複数あり、由来は一つに定まっていません。日野中納言や日奉宗頼にちなむ説も伝わります。
日向市の名称は旧国名である日向国に由来し、「日の出る方に向かう国」を意味すると伝えられる。1951年の市制施行時に歴史的な国名を採用した。
大化の改新のころ、須磨関を守るために置かれた兵器庫「兵庫」に由来するとされます。のちに兵庫津の港町として発展し、区名として受け継がれました。
市名は市内を流れる平川に由来し、流域の結びつきと発展を願って名付けられた。
平塚市の地名は、塚が平らになったという伝承で知られますが、確定的な由来は不明です。地形的には砂丘上の集落を示す語源説が有力とされています。
弘前は古く「広崎」と呼ばれた地名が転じたもので、城下町成立に伴い縁起の良い字を用いて改称されたとされる。
「広島」の地名は、天正17年(1589年)に毛利輝元が太田川の広大な三角州(デルタ)に城を築いた際に命名された。広々とした川の三角州を「島」にたとえた地形由来の地名とされる。
城内にあった「福の井」と呼ばれる井戸、または水がよく湧き出る土地「脹井(ふくヰ)」に由来するとされ、江戸時代初期に縁起を担いだ改称を経て定着した地名。
「福岡」の地名は慶長6年(1601年)に黒田長政が築城した際、黒田家の発祥地である備前国(現・岡山県)の「福岡」にちなんで城名と城下町名を命名したことに由来する。
福島区の地名は、菅原道真がこの地で「福島」と名づけたという伝承に由来します。もとは湿地や砂洲の島で、古くは「餓鬼島」とも呼ばれたと伝えられます。
明智光秀が福智山城を築いた際に「福智山」と名づけたことが、現在の福知山の地名の由来とされます。のちに「智」が「知」に転じ、福知山となったと伝えられます。
富士吉田市の「吉田」は、中世に富士山北麓の門前町として発達した吉田の地名に由来します。富士山信仰の拠点として栄え、のちに富士を冠して市名となりました。
富津市の地名は、日本武尊と弟橘媛の伝説に由来する「布流津(ふるつ)」が転じたとする説が有力です。ほかに、古い港を意味する「古津」や、岬の突端を表す古語「ほと」など複数の説があります。
室町時代、仏生寺城主が城の堀に舟を連ねて橋を架けたことに由来するとされます。舟で橋を作った出来事が地名として残ったものです。
鉾田市の地名は、古代の武器や石槍などが多く出土した土地を意味する「鉾多」に由来する説が知られています。
舞鶴市の地名は、明治2年に田辺から改称されたもので、田辺城の別名「舞鶴城」に由来します。城の姿が鶴の舞うように見えたことから名づけられたと伝えられます。
牧之原市の地名は、古くこの一帯に官牧や私牧が置かれたことに由来するとされます。のちに台地北部の呼称が地域全体へ広がり、現在の市名となりました。
近世末期以降、経済の中心が麓から浜辺の枕崎へ移ったことから現在の市名になったとされます。旧称は鹿篭郷・鹿篭村でした。
松前町の町名は、加藤嘉明が正木城から松山城へ居城を移した際、「松山の前」の意で「松前」と改めたという説が知られます。ただし他説もあり、由来の詳細は確定していません。
益城町の町名は、昭和の合併で郡内第一番目の合併町であることを示すために「益城」の名を採ったとされます。古くは益城郡の名があり、地域の歴史を受け継いだ地名です。
町田市の地名は諸説あり、区画した田地を表す「町田」や、市(いち)の立つ場所に由来する説などが伝わります。商業や交通の要地として発展した歴史とも結びつけて説明されます。
蒲生氏郷が天正年間に築いた城下町に由来し、「松」は吉祥の意、「阪」は大坂城の「坂」にちなむとされます。明治以降は「松阪」に統一され、読みは「まつさか」です。
吉野川河口の干拓地に堤を築き、多くの松を植えたことから「松茂村」と名づけられたとされます。町名は、松が茂る景観と新田開発の歴史を映した地名です。
松野町の地名は、町内に見られる「松」や「野」といった自然地形・植生を思わせる要素に由来すると考えられます。町内には古市場や国木谷など、周辺の地形や生業を反映した地名も残ります。
平安時代の史料に見える「松原荘」に由来し、松の生い茂る原野や丹比柴籬宮の伝承と結びついて市名が受け継がれました。
松本市の地名は、天正10年に深志城が「松本城」と改称された近世の城下町名に由来します。『待つ事久しくして本懐を遂ぐ』にちなむ説もありますが、佳字を用いた瑞祥地名とみるのが通説です。
「松山」の地名は慶長8年(1603年)に加藤嘉明が勝山へ城を移し「松山城」と命名したことに由来する。長寿と繁栄の象徴である松にちなんだ瑞祥地名とされる。
真室川町の地名は、修験道に由来する伝承や山岳修行の地としての歴史と結びついて語られています。町内には修験者にまつわる伝説や地名が残り、地域の信仰文化を今に伝えています。
丸亀市の地名は、古くは「丸亀城」の城下町として広まった呼称で、由来の確定説は収録資料では明示されていません。市内の郡家は古代の郡衙にちなむなど、周辺には歴史地名が残ります。
三朝町の町名は、町内の三朝温泉に由来するとされます。温泉名は、源氏の武将が三徳山で三度祈願したことにちなむという伝承で知られます。
三鷹市の地名は、野方領・世田谷領・府中領にまたがる鷹場の村々が集まったことに由来するといわれます。江戸時代の鷹場と、三つの領にまたがる地勢が名前の背景です。
港区の地名は、大阪港の築港や新田開発、運河・橋梁など港湾に関わる地形や施設に由来するものが多く、区内の町名にもその歴史が色濃く残っています。
足柄地方の南部に位置することから「南足柄」と名づけられました。地名の基層である「足柄」は、足のすねのようななだらかな傾斜地を表すともいわれます。
京都市南区は、下京区からの分区と久世村の編入によって成立した区で、地名自体は方位を示す「南」に由来します。区内の町名は旧村名や大字名を冠するものが多く、歴史的な編成の影響が色濃く残っています。
南大東村は、南大東島を行政区域とする村名で、島名に「南」を冠して北大東島と区別した呼称です。島の正式名称は、19世紀にロシア艦ボロジノ号にちなむ「ボロジノ島」とも呼ばれました。
三原市の地名は、旧市街地の後背にある谷間の平地に由来し、三つの「ハラ」から「三原」と呼ばれるようになったとされます。城下町として発展した歴史も地名の定着に影響しました。
古くは三原郷と呼ばれ、明治22年の町村制施行で三原村となりました。地名の由来は検索結果からは明確に確認できず、村名の成立経緯が主な手がかりです。
景行天皇の九州平定の巡幸で、その御船(おんふね)が着岸したことに由来すると伝えられます。町名は古くからの地名として受け継がれました。
都城市の名は、14世紀に北郷義久が築いた「都之城(みやこのじょう)」に由来するとされる。都島に築かれた城が地名化し、現在の市名へと発展した。
『日本書紀』の景行天皇紀にみえる「京」に由来し、京都郡やみやこ町の名につながったとされます。古代の仮宮の伝承が地名の背景にあります。
三次市の地名は、古代からの郡名「三次(みよし)」に由来し、由来には諸説あります。
『伊勢物語』に見える「三芳野の里」にちなみ、洪積台地の原野を美称した「三芳野」から生まれた地名です。合併時に同名地が多かったため「野」を省いて三芳村となり、後に三芳町へ改称しました。
「村山」は狭山丘陵の峰々を指す「群山(むれやま)」が訛ったものとされ、1970年の市制施行時に同名回避のため「武蔵」を冠しました。
村上市の地名は、古くからの村名「村上」に由来します。中世から近世にかけて城下町として発展し、地名が現在の市名として受け継がれました。
嘉吉年間に小山九郎業朝が村田館を築き、「村田殿」と称されたことに由来すると伝えられます。中世の館名がそのまま地名として定着した例です。
門司区の地名は、関門海峡の玄関口として発展した港町の歴史と結びついています。古くから交通・交易の要衝として知られ、近代以降は門司港を中心に地名が定着しました。
アイヌ語の「モセウㇱ(mose-us)」に由来し、「イラクサ・群生するところ」または「草刈りをいつもするところ」と解されます。明治31年の妹背牛駅開業以降、当て字の「妹背牛」が定着しました。
「盛り上がり栄える岡」を意味する瑞祥地名。1691年(元禄4年)に第4代盛岡藩主・南部重信が連歌の一節にちなんで「盛岡」の表記を正式に定めた。
守谷の地名は、日本武尊の「森なる哉」に由来する説や、平将門が「守るに易い谷」と評したことに由来する説などが伝わります。
地名の由来は定説がなく、比叡山を守る「守山寺」にちなむという伝承が知られています。古くは『もる山』と表記・詠唱された例もあり、由来は複数説あります。
日本武尊が草薙剣で葦を薙ぎ、火を放って敵を退けた伝説に由来するとされる地名です。古事記に見える「ヤキツ」が転じて、現在の焼津になったと伝えられます。
屋久島の「屋久」は、古代文献に見える「掖久(やく)」に由来すると考えられています。島名が町名となり、現在は屋久島と口永良部島を行政区域とする町です。
八雲町の地名は、開墾を進めた徳川慶勝の意向で、須佐之男命の歌「八雲立つ」にちなみ命名されたものです。
八街市の地名は、明治初期の下総牧開墾で8番目に開墾された地に由来し、漢数字の「八」と「街(ちまた)」を組み合わせて名付けられました。開墾の順序を示す地名の一つで、現在の市名として残っています。
前九年の役にちなむ矢羽根の説と、段差のある湿地を表す地形由来の説があります。
矢吹町の地名は、源義家が社殿の屋根を矢柄で葺いたという伝承に由来するとされます。別説として、隈戸川沿いの崖仏群や滝八幡社に結びつく地名とも伝えられています。
養父市の地名は、古くからの地名「養父」に市制施行時の「市」を付したものです。由来の詳細は諸説ありますが、周辺の歴史地名として受け継がれています。
郡山の地名は、古代の郡役所「郡家(こおりのみやけ)」が置かれた山に由来するとされます。平安末期には文献に見え、城下町として発展した地名です。
大和市の地名は、日本の雅称「大和」ではなく、明治期に鶴見村から改称された「大和村」に由来します。村内の対立を収めるため、「大いに和する」の願いを込めて名付けられました。
大和村の名は、大和朝廷の時代にさかのぼるという伝承や、大和から来た人々が立ち寄った良港に由来するとされます。明治41年に大和浜から村名をとって大和村となりました。
結城市の地名は、古くは「結城」と書かれ、結城氏の城下町として知られたことに由来します。地名の成立は中世の城郭・武家勢力と深く結びついています。
町名は、元正天皇が美泉にちなみ「養老」と改元した養老伝説に由来します。養老の滝や菊水泉の名と結びついた、めでたい地名です。
昭和30年の合併時に、明治村と駒寄村を結ぶ河川の名にちなみ命名された町名です。平成3年に町制施行され、吉岡町となりました。
室町時代から呼ばれてきた「吉富郷」に由来して名付けられました。古くからの地名を受け継いだ町名です。
「吉野ヶ里」は2006年の町合併の際、日本最大の弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」の名に由来して命名された。「ヶ里」は古代条里制の土地区画「里(さと)」を示す。
地名は、室町時代に毎月四日・十四日・二十四日に市が立ったことに由来するとされます。古くは「四日市庭」とも記され、のちに「四日市」と定着しました。
四街道市の地名は、四方へ道が分かれる四街道十字路に由来します。明治14年に建てられた道標石塔が、地名発祥の地として伝えられています。
米子市の地名由来には複数の説があり、古い呼び名の変化や土地の形に結びつける見方が伝えられています。
『新編武蔵風土記稿』では、鉢形城落城後に各地から人々が集まって住んだことが由来とされます。中世城郭の周囲の集落を指す語に由来するという説もあり、「人が寄る町」を象徴する地名です。
与論町の地名は、島の歴史を通じて用いられてきた呼称に由来し、琉球・薩摩の支配変遷の中で定着したと考えられます。県資料では町名そのものの直接の語源説明は見当たりません。
「栗東」は「栗太郡の東」に由来し、昭和29年に4村合併で栗東町が誕生したことにちなみます。平成13年に市制施行し、単独で市になった珍しい例です。
軍馬育成のための牧場区分「戸」に由来し、六番目の区域を指したとされる地名。
伊達政宗が造営した若林城に由来する区名で、城下町としての歴史と政宗の晩年の記憶を今に伝えます。
「和歌山」は天正13年(1585年)に豊臣秀吉が築城の際に命名した地名で、南方の名勝「和歌浦」の「和歌」と城が置かれた「岡山」の「山」を合わせた合成語とされる。
涌谷町の地名は、砂金採取のために人々が集まり、谷が「涌きかえる」ように活気づいたことに由来するとされます。日本初の金産地として知られる土地の歴史が、地名にも刻まれています。
町名は和気清麻呂の出身地であることを高揚して命名されたとされます。和気氏ゆかりの地名として知られます。