行政区画由来
郡・郷・区など、かつての行政上の区分名を受け継いだ地名。
367件収録
「愛知」の県名は古代の郡名「愛知郡」に由来する。「あいち(あゆち)」はかつて名古屋南部に広がった干潟「年魚市潟(あゆちがた)」を語源とし、崩落地形を意味する古語に遡る。
「石川」の県名は加賀地方にあった古代の郡名「石川郡」に由来する。石川郡の名は県最大の河川・手取川の古名「石川(石・岩の多い川)」に由来し、扇状地の砂礫地形を表す地名である。
県名は古代の茨城郡(いばらきぐん)に由来する。『常陸国風土記』に記された黒坂命が「茨の城」を設けて賊を討ったという説話が語源とされ、「うばらき」が母音交代により「いばらき」に変化した。
古来から国府が置かれていた大分郡(おおきたのこおり)に由来し、「おおきた(大北)」がイ音便によって「おおいた」に転じたものとされる。
「香川」の県名は古代から続く郡名「香川郡」に由来する。「かがわ」の語源は「樺川(かばかわ)」の転訛や、花の香りが川に移る様子など複数の説がある。廃藩置県後に2度廃止・2度復活という日本唯一の波乱の歴史を持つ。
県名は明治4年(1871年)廃藩置県時の県庁所在地を含む「群馬郡(ぐんまぐん)」に由来する。「群馬」はもと「車(くるま)」と読み、古代の豪族「車持君」や川の曲流など諸説あるが、和銅6年(713年)の勅令で漢字二文字の「群馬」に改められた。
「埼玉」の県名は廃藩置県時に県庁設置予定地として計画された「埼玉郡」に由来する。「さきたま」は湿地や水辺の端を意味する地形由来の古称で、飛鳥時代には「前玉」と記されていた。
『肥前国風土記』は「佐賀」の起源として、日本武尊が楠の繁茂を見て「栄の国」と呼んだ説と、佐嘉川の荒ぶる神を鎮めた賢女にちなむ説の2つを伝える。ほかに坂・逆・洲処の転訛説もある。
「滋賀」の県名は古代から続く郡名「滋賀郡」に由来する。「しが」の語源は「石の多い所」を意味する「シカ(石処)」や「砂地」を意味する「スカ」の転訛など複数の説があり、琵琶湖畔の地形と関係する。
県庁が置かれた松江城の旧所在地・島根郡(嶋根郡)に由来し、その地名は『出雲国風土記』において八束水臣津野命が命名したと伝わる。
「千葉」の県名は設置時に県庁が置かれた「千葉郡千葉町」の名に由来する。「千葉」という地名の語源は「台地の端(ちば)」を意味する地形説が有力で、万葉集にもその名が見られる古称である。
県名は明治4年(1871年)の廃藩置県時の県庁所在地「栃木町(現・栃木市)」に由来する。「栃木」の地名自体はトチノキ(栃の木)が多く自生していたとする説や、神社の千木に由来するとする説など諸説ある。
「長野」の県名は廃藩置県時に県庁が置かれた長野村(現・長野市)の地名に由来する。長野の地名自体は、善光寺平が「長く続く野(傾斜地)」であることから名付けられたと伝わる。
「三重」の県名は古代の郡名「三重郡」に由来する。「み(水)」+「え(辺)」で水辺の地形を表すとする説が有力。廃藩置県後に安濃津県として発足したが、県庁移転に伴い三重郡の名から「三重県」に改称された。
宮城郡名に由来し、湿地を意味する「みやき(やき)」が転じた説と、塩竈神社や多賀城など宮や城の存在にちなむ説がある。1871年(明治4年)に仙台県から宮城県へ改称。
「宮(神社)の前の地(崎)」を意味し、神社の前方にあたる場所「宮前(みやさき)」が転じたとする説が有力。奈良時代にはすでに「宮崎郡」の名が文献に登場する。
平安時代の地誌『和名類聚抄』(931〜938年)に記された「最上郡山方(やまがた)郷」が語源で、中心部から見て山の奥寄り・山の方向にある土地を意味する。
「山梨」の県名は律令制下から続く古代の郡名「山梨郡」に由来する。廃藩置県時に甲府県から改称された。「やまなし」は「山を成す(山平らし)」など複数の説があるが、古代からの地名がそのまま郡名・県名へと受け継がれた。
相生市の市名は、明治22年(1889)の町村制で設置された相生村を直接受け継いだもので、その村名は江戸時代・中世の村名にさかのぼります。「相生」の語源そのものは不詳で、『相生市史』は後世の諸説をいずれも確かな根拠を持たないものとしています。
姶良市の地名は、古代の「姶羅郡」や「始羅郡」に由来し、表記の揺れと混同を経て定着したと考えられています。市名は旧姶良町の町名を引き継いだものです。
赤磐市の地名は、合併前の赤坂郡と磐梨郡の郡名を組み合わせたものです。奈良時代以来の郡名を受け継いだ、比較的新しい合成地名です。
安芸の由来には、豊穣を意味する「アキ」や、物産が飽き足りるほどあることにちなむ説などがあります。古くは土佐国安芸郡の名として見え、地名の成立には複数の説が伝わります。
旧高田郡に由来する「高田」に、旧国名の安芸を冠して成立した市名です。合併前の郡名を受け継ぎつつ、同名市との重複を避ける形で定着しました。
古くは秋留郷と呼ばれ、阿伎留神社や秋留台地など「あきる」の名が地域に親しまれてきました。新市名は、その歴史ある呼称に「野」を加え、親しみやすさと将来への発展性を込めて命名されました。
町名の由来は明確には不明ですが、古代の木簡に見える「阿具比」や「英比」にさかのぼると考えられています。中世には「阿古居」と書かれた例もあり、古い郷名の復活使用によって現在の町名が定着しました。
赤穂市の名は古代の郡名「赤穂」を受け継いだものです。『播州赤穂郡志』は千種川の水辺に生える赤いタデの穂に由来すると説きます。読みは『和名類聚抄』以来ながく「あかほ」で、「あこう」が公式になるのは昭和35年のことでした。
浅川町の地名は、町内を流れる浅川に由来すると考えられます。町名は古くからの村名を受け継いで定着しました。
安佐北区は、広島市の北部に位置する行政区で、旧安佐郡の北側地域を中心に成立したことから「安佐北」の名が付けられました。区名は地理的位置を端的に示すもので、安佐地域の北側を意味します。
浅口市の地名は、旧浅口郡に由来し、郡名は古くから地域名として用いられてきました。市は2006年に金光町・鴨方町・寄島町の合併で成立しました。
朝来市の地名は、古代の朝来郡に由来します。郡名の由来は諸説ありますが、地域の歴史的な郡名が市名として受け継がれたものです。
安佐南区は、広島市の旧安佐郡安佐町・安古市町・祇園町などの区域を含む行政区名で、地名そのものの由来は区名制定時の合成名です。安佐は旧郡名に由来し、南は広島市中心部に対する位置関係を示します。
芦北町の地名は、古くは「葦北郡」として奈良時代の木簡にも見える古い郡名に由来します。葦の生える低湿地を表す地名と考えられ、漢字表記は時代とともに「葦北」から「芦北」へ変化しました。
足立区の地名は、古代の武蔵国足立郡に由来します。『葦立ち』説もありますが、区の公式説明では『阿太知』を当てた古い郡名が起源とされています。
古くから「阿智」と呼ばれた地域名が村名の由来で、平安初期の史料や延喜式にも見える古い地名です。昭和31年の三村合併後に新村名として採用されました。
安曇野市の「安曇野」は、古代の安曇郡に由来し、海人族の安曇氏に結びつける説が有力です。市名は平成の合併時に採用され、地域の歴史と文化を象徴する地名となりました。
阿武町の町名は、旧郡名の阿武郡に由来します。町域は1955年に奈古町・福賀村・宇田郷村の合併で成立し、郡名を町名として受け継ぎました。
市名は、合併前の3町が属していた郡名「海部(あま)」をひらがなにしたものです。難読の「海部」を避け、親しみやすさを重視して命名されました。
海士町の「海士」は、古代の行政区画である海部郡に由来すると考えられます。隠岐の海運や海人(あま)との結びつきが強い土地柄を反映した地名です。
「あらお」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。地名としては康暦元年(1379年)の文書にさかのぼり、近世の荒尾村を経て市名に受け継がれました。
有田市の地名は、古代の郡名である有田郡に由来します。もとは安諦郡と呼ばれ、平城天皇の諱を避けて改称されたと伝えられます。
徳島県の古代国名「阿波」や阿波郡に由来し、もとは「粟国」と呼ばれた地名が、好字二字令によって「阿波」と表記されるようになったと考えられています。
古代〜中世の荘園名「安堵庄」に由来するとされ、もとは「アト」と呼ばれた低地の地名に、縁起のよい字を当てたと考えられています。
古くは『味蜂間郡(あはちまごおり)』や『安八萬』と記された地名に由来し、発音の変化を経て安八町の名になったとされています。
戦国時代の「草野郷」に由来し、草野舘や綿津見神社の旧社名「苕野神社」との関わりが指摘されています。村名はこの地域の歴史的な地名に根ざしたものと考えられます。
町名は旧郡名の飯石郡飯南に由来し、合併後の新町名として受け継がれました。周辺の地勢や歴史的な郡域を反映した地名です。
生野区の名は、生野長者の伝説に由来するとされます。明治22年成立の生野村の名を継承し、昭和18年に区名として定着しました。
町名は中世の荘園名に由来するとされ、足羽川上流の山間地にある地名として定着しました。周囲を山に囲まれた地形と結びついた名称です。
岐阜県池田町の地名は、古代の「池田郷」に由来し、池や水田の広がる土地を表したと考えられます。町名は中世以来の地名を受け継いだものです。
近世の村名「池田町村」に由来し、さらに「イケ(水のある所)+タ(場所を示す接尾語)」とみる説があります。千国街道の宿駅として発達した中心地名が町名として受け継がれました。
市名は、明治期に成立した伊佐郡の郡域に由来します。現在の伊佐市域がおおむねその範囲にあたり、合併時に歴史的な郡名を新市名として採用しました。
「石井」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町名は昭和30年の合併前から続く旧石井村の名を継いだものです。
石岡市の地名は、古代の茨城郡にあった茨城郷に由来するとされます。高台や崩落地を表す古い地名要素が転じた説が有力です。
石川町の地名は、町域の中心となった石川村に由来します。石川の名は、石川郡の古い地名を受け継いだものと考えられます。
出水市の地名は、古くからの郡名・地名である「出水」に由来し、薩摩国出水郡の名としても知られます。県の資料では個別の語源説明は見当たりませんが、歴史的に早くから定着した地名です。
磯子は、武蔵国久良岐郡の平子郷に由来し、平子氏の名が転じたとする説が有力です。海岸地形を表す「磯」と結びつける説も伝わります。
町名は、かつてこの地にあった「板倉村」に由来し、さらに古くは「伊奈良の里」と呼ばれたことにちなむとされます。万葉集に見える「伊奈良の沼」との関連も指摘されています。
板野町の地名は、古代の郡名「板野」に由来し、低湿地や崩壊地形を表す語に結びつける説があります。郡名として古くから用いられ、周辺の古代交通路とも関わる地名です。
伊丹の語源には斎田並(イタナミ)説・板上(イタカミ)説・絲海(イトウミ)説などがありますが、『川辺郡誌』が「諸説区々にして信を置くに足るもの無く」と記すとおり定説はありません。文献上は治承4年(1180)の『山槐記』に「伊多美」と見えるのが初見で、中世の伊丹庄、近世の伊丹郷町、明治の伊丹町と受け継がれて市名となりました。
旧市川大門町・三珠町・六郷町の合併で誕生した町名で、「市川」と「三つの郷」を組み合わせた名称です。平成の大合併による新設町で、旧町名の要素を受け継いでいます。
一戸町の「戸(へ)」は、糠部地方に見られる「一戸」から「九戸」までの連続地名の一つで、古代の牧場・行政区画や交通路に由来するという説が有力です。
糸島市の名は、旧怡土郡と志摩郡を合わせて「糸島郡」としたことに由来します。旧郡名の由来は明確ではありませんが、伊都国や島に結びつける説が知られています。
「稲毛」は古代の官職名「稲置(いなぎ)」に由来するともいわれ、古くから人の営みが続く土地として伝えられています。
稲敷市の地名は、旧郡名の「稲敷郡」に由来します。郡名の「敷」は、台地や低湿地などの地形を表す古い語と考えられています。
市名は古代の豪族・猪名部氏に由来し、和銅6年に「猪名部」から「員弁」へ改められたと伝えられます。現在の市名は旧員弁郡の名を受け継いだものです。
町名は『万葉集』にみえる「いなみの(印南野)」に由来し、古代の印南郡・印南野台地の地名を受け継いだものです。
町名は室町時代に見える荘園名「印南荘」に由来するとされます。『続風土記』には海部(うなへ)の転語とする説もありますが、不詳です。
伊根町の地名は、町の中心集落である伊根に由来します。由来の詳細は確定的な説が少なく、古くからの地名がそのまま町名として受け継がれたものと考えられます。
いの町の「いの」は、町内の大字「伊野」に由来する地名と考えられます。周辺には「神田」など中世以来の地名も残り、地域の歴史を伝えています。
茨城町の町名は、県名と同じく古代の茨城郡・茨城郷に由来すると考えられます。地名の原義は高台や崩落地を表す説があり、後世に当て字として「茨城」が用いられました。
昭和30年の合併で成立した町名で、奈良時代の「伊備郷」にさかのぼる「揖斐」に、町内を流れる揖斐川の名を重ねて付けられました。
「伊万里」の地名は、天平12年(740年)に藤原広嗣の乱平定のため来訪した紀飯麻呂(いいまろ)の名が「いまり」と転訛したとする説と、古代条里制「伊万ヶ里」に由来するとする説がある。
市名は旧射水郡の郡名に由来し、万葉集に見える「伊美豆」「伊美都」といった表記にさかのぼるとされます。語源は「出ずる水」を意味するともいわれ、川口や湧き水を示す地名と考えられています。
市名は旧入間郡からの借用で、古くは「入間野」と呼ばれた地域名に由来します。語義は「入り込んだ谷間・低地」を表すとする説が有力です。
岩国市の「岩国」は、岩の多い地形を表す「岩」と、国衙・郡などの行政区画を示す「国」を組み合わせた地名とされます。古くから錦川流域の要地として発展し、地名も地域の中心性を反映して定着しました。
古代の郡名「磐田」に由来し、「岩石の多い場所」を意味すると考えられています。昭和15年の町名採用を経て、市名として受け継がれました。
岩手町の地名は、岩手郡に由来し、さらに岩手山の噴火で生まれた岩の多い地形にちなむと考えられています。
岩美町の町名は、明治29年に邑美・法美・岩井の3郡が合併して岩美郡が成立したことに由来し、「岩井」の「岩」と「邑美・法美」の「美」を合わせて名付けられました。
印西の地名は、印旛郡の西部にあたることを表す中世荘園名の復活使用とされます。印旛沼の西に位置する地理的特徴を反映した名です。
上田市の地名は、鎌倉末期に見える「上田荘」にさかのぼり、段丘上の田地、または段丘の上にある土地を意味すると考えられています。城下町として発展した上田城築城以前からの古い地名です。
桂川の河岸段丘上に発達した宿場町・市場町に由来する地名で、古くから甲州街道の要地として栄えました。市名は旧上野原町にちなみ、2005年の市制施行で上野原市となりました。
右京区の「右京」は平安京の官職名に由来し、区名としては1931年の京都市編入時に成立しました。区内の太秦は秦氏ゆかりの地として知られ、地名の由来も渡来系氏族との関わりが指摘されています。
古代の田原郷を受け継ぐ地名で、宇治の南にある田原の地を指したことに由来すると考えられます。中世には田原郷・田原庄の名で史料に現れ、宇治を冠して宇治田原となりました。
宇陀の地名は、古くは菟田・宇太・宇田などとも書かれ、境界や端を表す語に由来するとされます。水の神を祀る宇太水分神社や河川流域との関わりから、水辺の土地名としても解釈されています。
旧郡名の鵜足(うた)に港を意味する「津」が付いた地名で、古くは鵜足津とも表記されました。
宇土市の地名は、宇土半島がもとは島で「浮土」と表したものが転じたという説や、細く長い谷を意味するという説がある。古くから宇土郡の名で見られる地名で、地形に由来する可能性が高い。
宇和島市の地名は、古くは板島と呼ばれた地域に由来し、宇和郡の立間郷などの地名変遷を経て定着したと考えられています。宇和荘に含まれたとする説や、伊但馬に由来する伝承もあります。
市名は、市域に古代の越前国府が置かれていたことに由来します。旧国名「越前」を受け継ぎ、歴史的中心地としての性格を示す地名です。
邑楽町の地名は、古代の木簡に見える「大荒木評」を邑楽郡の古名とみる説があり、古い地名の転訛と考えられています。
おおい町の名は、旧大飯町と名田庄村の合併で成立した町名で、旧名田庄地域は中世の荘園名「名田の庄」に由来します。町名自体は合併による新設ですが、地域名には古い歴史が受け継がれています。
鎌倉時代から「大井の庄」と呼ばれた歴史的な呼称にちなみ、昭和31年の町制施行時に「大井町」と名付けられました。
大宜味村の「大宜味」は、1673年に田港間切として成立し、1695年に大宜味間切へ改称したことに由来します。村名はこの間切名を受け継いだもので、沖縄の地名に多い歴史的な行政区画由来の名称です。
町名は「大崎郷」に由来し、江戸時代に置かれた大崎外城・大崎郷の名がもとになったと考えられます。古くは救仁(くに)と呼ばれた地域で、近世以降に大崎の地名が定着しました。
市名は『和名抄』に載る石見国安濃郡の「邑陀(おおた)郷」を継承したもので、1954年の市制施行時に旧大田町の町名がそのまま用いられました。「大田」は古代に開かれた広大な水田を指す地名とみられています。
邑南町は、2004年の合併で成立した町名で、「邑智郡の南部」に位置することを表す地名です。郡名の「邑智」と方位の「南」を組み合わせた合成地名と考えられます。
古代の「大野郡」に由来し、広い野原や扇状地を表す「おおの」が地名のもとになったと考えられています。大沼郷との関連を指摘する説もあります。
町名は旧大野郡に由来し、古代の地名「大野」を受け継いだものです。明治30年の合併時に旧郡名にちなみ新たに命名されました。
大衡村の地名は、古代の郡名・地名に由来すると考えられています。宮城県内の古い地名の流れを受けた名称で、由来には地形や湿地に関わる説が知られます。
小鹿野町の地名は、平安時代の『和名抄』に見える「巨香郷(おかのごう)」にさかのぼるとされます。のちに小鹿野へ転じ、江戸時代には市場町として発展しました。
小川町の町名は、近世の小川村を明治22年の町制施行時に引き継いだものです。「小川」の語義そのものを説明する一次資料は確認されておらず、小さな川に由来するとの解釈が通説的に語られています。
小郡市の地名は、古くからの郡名「御原郡」や周辺の小規模な集落名に由来するとされます。現在の市名は、地域の中心性を示す地名として定着しました。
小千谷市の地名は、古代の「千屋郷」に由来する説が有力で、そこにある小さな集落や低湿地を表す語が転じたとも考えられています。
小野市の地名は、古くからの地名「小野」に市制施行時の「市」が付いたものです。周辺には古代の郷名や荘園名が残り、地域の歴史的な地名継承がうかがえます。
駒形神社の御前に位置する崎(岬)を意味する説と、かつて御厩崎(うまやざき)と呼ばれたことが転じた説が伝わります。2004年の浜岡町との合併では、合併協議会で「全国的にも知られている」として御前崎市の名が提案され、全会一致で決まりました。
町名は、町域の中心集落である小山(おやま)に由来します。周辺の山地や谷地形の中で形成された集落名が、そのまま町名として定着しました。
遠賀町の「遠賀」は、町内の上別府などに見られる「別府」が古代の特別な土地を示す語に由来する可能性があり、地域の開発史と結びついていると考えられます。町名そのものは郡名を受け継いだもので、遠賀川流域の地名として定着しました。
恩納村の地名は、1673年に恩納間切として成立した行政地名に由来します。由来の語源そのものは明確ではありませんが、琉球王国期の地域区分の名が村名として定着しました。
平安末期の荘園「開田荘」に由来し、のちに海田市と呼ばれるようになった地名です。瀬野川河口の地形変化と宿駅・市場の発展が、現在の町名の背景にあります。
海津市の名は、旧海津郡に由来し、さらに海西郡と下石津郡を合わせた合成地名です。海西の「海」は古く尾張国海部郡にさかのぼるとされます。
旧海南市は海草郡南部に位置したことから「海南」と名づけられました。合併前の町村が郡の南にあった地理的条件を反映した市名です。
2006年に旧海南町・海部町・宍喰町が合併して成立した町で、町名は旧海部郡の「海」と「陽」を組み合わせた新しい名称です。海に面した地域性を踏まえた合成地名と考えられます。
各務原市の地名は、古代の「各務」や「各牟」に由来し、鏡作部や渡来系豪族に結びつける説が知られています。市制施行時に「各務原(かかみがはら)」が正式表記として採用されました。
加古川市の名は市域を貫く加古川に由来し、その川名は古代の郡名「賀古(加古)」にさかのぼります。郡名については『播磨国風土記』が丘の姿を鹿児(かこ)に見立てた説話を伝えますが、水夫(かこ)説など諸説があり、語義は定まっていません。
加西市の市名は、旧加西郡に由来します。市制施行時に中心地の北条町と同名の市が既にあったため、郡名を採って「加西市」と名づけられました。
市名は旧志紀郡柏原村・柏原町に由来し、古くは「柏」が生える原野を表した地名と考えられます。語源にはカシワやカシなどの樹木が多かった土地を示す説があります。
春日井市の市名は、旧春日井郡に由来し、さらに春日部の転声とされます。春日大娘皇女の御名代部や春日氏に結びつける説も伝わります。
町名は『和名抄』に「加須也」と記された古い地域名に由来し、郡名にもなった「かすや」を継いだものです。昭和32年の町制時に「糟」が常用漢字でなかったため「粕」が用いられました。
市名は旧北葛城郡に由来し、さらにその郡名は古代の葛城氏にさかのぼります。広域地名を受け継いだ名称で、葛城の歴史的な地名圏を示しています。
嘉手納町の地名は、古くからの集落名「嘉手納」に由来します。町域は沖縄本島中部の海岸沿いにあり、歴史的には村名・町名として受け継がれてきました。
加東市の市名は、旧加東郡に由来します。加東郡は古代の加古郡が東西に分かれて成立した郡名で、その名を受け継いで市名となりました。
門川町の地名は、古代の郷名・駅名であった「刈田(かりた)」が転訛して「門川」となったとされる。五十鈴川河口部に開けた地域で、古くから交通と漁業の拠点として発展した。
可児の地名は、宮中の掃除を担った掃部寮(かにもり)に由来する説が有力とされます。蟹や可兒氏に結びつける説もありますが、定説には至っていません。
2004年に宇ノ気町・高松町・七塚町が合併して成立した市名で、旧河北郡の「河北」に由来する。読みは「かほく」だが、漢字表記は「かほく」ではなく「河北」の音読みを採ったものと考えられる。
嘉麻市の「嘉麻」は、律令制の嘉麻郡に由来する古い地名です。明治期に嘉麻郡と穂波郡を合わせて嘉穂郡が成立しましたが、市名はさらに古い「嘉麻」を採用しています。
上板町の「上板」は、古代の板野郡に由来する板野の上方に位置することを示す地名と考えられます。町内の神宅は古い集落名で、郡家や神社との関わりが地名考察の手がかりになっています。
「上勝」は勝浦川上流の地域を表す地名で、勝浦郡の「上」に位置することに由来すると考えられます。町内の「傍示」は、町村の小区画や新しい地区を指す語として伝わっています。
北山川上流域にあることから「北山」と呼ばれ、江戸時代の北山上組にちなむ村名です。紀州本領の北に位置する地理的な呼称がもとになりました。
上郡町の名は、江戸時代からの村名「上郡村」を明治の上郡村・大正の上郡町が受け継いだものです。ただし「上郡」という語そのものの由来を記した資料は確認できず、語源は未詳です。
2005年に香住町・村岡町・美方町が合併して成立した町で、町名は旧香住町の「香」と美方郡の「美」を合わせた合成地名です。
上三川町の地名は、河内郡内の三川郷に由来する説と、鬼怒川・江川・田川の三つの川にちなむ説があります。いずれも水辺の地形と深く結びついた地名です。
上山市の地名は、古代の山方郷に由来し、最上郡の中心から見て川上側・山の上手にあたる場所を表したと考えられています。
市名は、市域を流れる加茂川に由来し、旧地名の「加茂」や『倭名類聚抄』にみえる加茂郷との関連も指摘されています。明治22年の町村合併時に、史的所伝を踏まえて鴨川町と名付けられました。
刈羽村の地名は、古くからの郡名である刈羽郡に由来します。由来の詳細は諸説ありますが、村名は郡名をそのまま受け継いだものです。
河津町の地名は、『和名抄』にみえる賀茂郡川津郷にさかのぼります。その名は荘園・郷の河津庄・河津郷に受け継がれ、河津町はその遺称地とされています。
地名は約1300年前の「川辺郷」にさかのぼり、川のほとりを意味する「川辺」に由来します。飛騨川沿いの立地を反映した地名で、鎌倉時代には「川辺庄」とも呼ばれました。
甘楽町の地名は、古代の郡名「甘良(かんら)」に由来するとされ、渡来人との関わりを指摘する説や地形に由来する説があります。
中世の木島郷に由来し、近世には一帯が木島平と呼ばれていたことから名付けられた村名です。昭和30年の合併で現在の木島平村が成立しました。
北方町の地名は、生津荘の北部に位置したことに由来するとされます。古くは「美濃国北方郷」として見え、地理的位置を表す地名です。
北本市の地名は、同名の本宿村があったため北にある本宿村を「北本宿村」としたことに始まります。のちに駅名や町名へ受け継がれ、現在の「北本」となりました。
宜野座村の「宜野座」は、琉球王朝時代から見られる地名で、国頭郡の古い集落名に由来します。村内の古知屋は1946年に松田へ改称され、現在の村域が形づくられました。
宜野湾市の地名は、琉球方言の地名を漢字で当てた万葉仮名的表記に由来すると考えられます。音読みと訓読みが混ざった沖縄の難読地名の一つです。
君津市の「君津」は、明治期に成立した郡名に由来し、木更津の「君不去(きみさらず)」伝説を略したものと伝えられます。市名としては昭和の合併で受け継がれ、地域の中心を示す名称として定着しました。
昭和30年の合併時に公募で決まり、玉名郡の東に位置することから「玉東」と名付けられたとされています。
清田区の区名は、昭和19年(1944年)に字厚別(あしりべつ)から分かれた際、清らかな水田地帯を意味して付けられた地名「清田」を受け継いだものです。
金武町の地名由来は明確には判明していませんが、15世紀末には「金武」の名が見えることから、琉球王国期以前に成立した古い地名と考えられています。
串間市の地名は古くは「櫛間」と表記され、神話に由来する伝承や地域を愛する土地を意味する説が伝えられている。昭和期に現在の「串間」の表記へ改められた。
郡上市の「郡上」は、古代に成立した郡上郡に由来する地名で、旧郡名が市名として受け継がれました。文献では「群上」とも書かれ、長良川上流域の地域名として定着しています。
国東市の地名は、古代の「国前(くにさき)」に由来すると考えられます。『豊後風土記』などに見える表記が、のちに「国東」へと転じたものです。
国富町の名は、古くからこの地域が「国富本庄」や「国富邑」と呼ばれていたことに由来し、豊かな国土や繁栄を表す地名として受け継がれてきた。
九戸村の「九戸」は、糠部地方の「戸(へ)」に由来するとされ、馬産や貢馬に関わる広域的な区画名だったという説が有力です。
昭和29年の合併で、球磨郡の渡村・一勝地村・神瀬村が一つになって成立しました。村名は、住民生活と深く結びつく球磨川や郡名の「球磨」に由来します。
久米南町は、旧久米郡の南部に位置することから名づけられた町名です。郡名の「久米」に方位を表す「南」を添えた、比較的新しい合成地名と考えられます。
倉敷市の地名は、年貢米などを集めておく「倉敷地」に由来するとされます。蔵屋敷が転訛したとする説もあり、港町・集散地としての性格を反映した地名です。
栗原市の地名は、旧栗原郡の名を受け継いだもので、郡名の由来ははっきりしません。市内の金成では、金が産出した土地や祈願成就にちなむ説が伝わっています。
芸西村の村名は、昭和29年(1954年)に和食・馬ノ上・西分の3村が合併した際、安芸郡の西端にあることから「芸西」と名付けられたものです。
甲賀市の市名は旧甲賀郡に由来し、古代の「鹿深(かふか)」が転じたものと考えられています。市名は合併時に「こうか」と読む形で定められました。
上毛町の町名は、明治以前この一帯が属していた豊前国の旧郡名「上毛郡(こうげぐん)」に由来します。上毛郡は1896年に築城郡と合併して築上郡となり、郡名としては失われていました。
古代の合志郡に由来する地名で、713年の「好字」使用の詔により「合志」の表記が定着したと考えられます。市名は長い郡名の歴史を受け継いだものです。
香南市の「香南」は、旧香美郡南部の地域名をもとにした合成地名で、香美地域の南に位置することを示す名称です。
「国府の州(こくふのす)」が転じたとされ、後にコウノトリ伝説から「鴻巣」の字が当てられたと伝わります。市公式は諸説あるとしており、歴史と伝承が重なる地名です。
「甲斐国の府中(国の中心地)」を略した「甲府」に由来し、室町・戦国時代に武田氏が城下町として整備したことで定着した行政由来の地名である。
「神戸(こうべ)」は奈良時代の律令制で生田神社に租税・労役を提供した民戸「神封戸(かんべ)」に由来し、「かんべ」が転訛して「こうべ」となった地名。
古代の倭名抄に見える甲良郷に由来し、もとは「カハラ」と読まれたとされます。犬上川沿いの川原を表す地名が転じたものです。
「広」は旧広瀬郡に由来し、「陵」は馬見丘陵地帯にちなむとされます。昭和30年の合併時に町名として採用され、自治体名になりました。
奈良・平安時代に東山道の駅家と郡家が置かれたことから「コホリ」が転じて桑折となったとされます。古代の郡衙に由来する地名と考えられています。
郡山市の地名は、古代の行政区画である「郡」と、目印となる「山」を組み合わせたものとされ、安積郡の中心を示す地名として定着しました。
市名は花鶴川の流域にあった古賀村の名を受け継いだものです。「コガ」の語義には入江を指す「江河」説、陸地を指す「クガ」説、国衙説などがあり、定説はありません。
小倉北区の「小倉」は、足立山麓の小さな倉に由来する説と、「企救の浦」が転じたとする説があります。区名は旧小倉市の北部にあたることから付けられました。
小倉南区は、北九州市の南部に位置することから「小倉」の南側を示す区名です。旧小倉市域の南部を中心に編成された行政区で、地名自体は方角を表す名称として理解できます。
「小坂」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。明治22年の小坂村成立以前から地名として存在しており、古い地名をそのまま町名に継いだものです。
条里制に由来する「五条」の地名がもととされる一方、「御霊(ごりょう)」が転じたとする説も伝わります。
平安期の「率浦郷」から「五十目」へ転じ、元禄ごろから「五城目」の表記が現れた。明治28年、商業の実態に村名が釣り合わないとして村会が改称を決議し、翌年の県告示で「五城目町」となった。
中世に糠部を一戸から九戸までに分けて統括した区分の、五番目にあたることによる地名。
狛江市の名は、前身の狛江村が古代の地名「狛江郷」から採ったものです。狛江郷の由来には高麗人の居住地にちなむ説などがあり、確定はしていません。
平安時代の篠原郷が、京都の仁和寺のあった「小松郷」にちなみ「小松島」と呼ばれるようになったと考えられています。港町として発展した歴史も持つ地名です。
小諸市の地名は、古くは「大村」「小村」から「大室」「小室」を経て「諸」へ転じたと考えられています。浅間山南西麓の地形や古代の牧場に由来する説が有力です。
古代の条里制にちなむ地名で、新居郡の東方を東條、西方を西條と称したことによります。鎌倉時代には荘園名「新居西条庄」として文献に見え、のちに西条藩・市名へ受け継がれました。
佐伯区は、広島市の行政区名で、旧佐伯郡や旧五日市町・旧湯来町の区域を引き継いでいます。区名は旧郡名の「佐伯」に由来し、1985年の区設置で定着しました。
坂井市は、旧坂井郡の4町が合併して誕生した市で、郡名の「坂井」を引き継いでいます。郡名の由来は古代の郡域名にさかのぼると考えられますが、詳細は史料上はっきりしません。
境町の「境」は、古くは地域の境界や区切りを示す地名として用いられたと考えられます。町名の由来は明確な定説が少ないものの、周辺の地形や歴史的な区分と結びつく可能性があります。
左京区の名は、平安京で内裏から見て左側、すなわち東側の「左京」に由来します。現在の行政区名は昭和4年に成立し、古代都城の方角観を今に伝えています。
佐世保の地名は諸説あるが、狭い川瀬を意味する「狭瀬」と中世の行政単位「保」が結びついたとする説や、シャシャンボの古名「サセブ」に由来する説が広く知られている。
佐野市の「佐野」は、平安時代の荘園名「佐野庄」にさかのぼるとされ、藤姓足利氏(佐野氏)ゆかりの地名として知られます。
市名は古代の「夷参(いさま)」に由来するとされ、地名の変化を経て「座間」と定着したと考えられています。
早良区の地名は、古代の早良郡に由来し、区内には「隈」や「百道」など、地形や土地の様子を表す地名が多く残ります。
三戸町の「三戸」は、平安時代後期に糠部郡が九つの地区に分けられた際の「三番目の戸」に由来するとされます。戸は牧場の木戸や地区を表す語と考えられています。
山武市の市名は、旧郡名の山武郡に由来する合成地名です。山辺郡と武射郡の名を合わせたもので、読みは旧来の「さんむ」を受け継いでいます。
塩谷町の地名は、古くからの郡名である塩谷に由来します。地形や塩に直接結びつくというより、地域の歴史的な呼称が町名として受け継がれたものです。
市名は新編武蔵風土記稿などに見える「志木郷」にちなむとされ、明治7年の合併後に志木宿と名付けられたことが由来です。現在の市名は昭和45年の市制施行時に定められました。
宍粟市の地名は、奈良時代の『播磨国風土記』に見える宍禾郡に由来すると考えられています。7世紀末の木簡にも「宍粟」の表記があり、古くから使われていた地名です。
七戸町の「戸(へ)」は、旧南部藩領に見られる区画名に由来するとされ、糠部郡を九つに分けた地名の一つと伝えられています。
品川区の地名は、古くから品川宿や品川湊として知られた「品川」に由来します。現在の区名は、旧品川町などの地域名を受け継いで定着しました。
柴田町の町名は、柴田郡に由来するとされます。郡名は古くからの地名で、地域の歴史を受け継いでいます。
渋川市の市名は、昭和29年(1954年)の市制施行で中核となった渋川町の名を受け継いだものです。「渋川」は平安時代末期の渋川郷までさかのぼる古い地名です。
志摩市の「志摩」は、志摩半島周辺に島が多いことから生まれた地名で、古くは志摩国・志摩郡の名として見えます。市名は旧志摩郡に由来します。
「島田」は鎌倉時代の『吾妻鏡』にも見える古い名で、名の意味を説明する確かな出典は確認できていません。2005年の金谷町との合併では、全国公募を経て旧市名「島田市」が引き継がれました。
明治22年の町村制施行で成立した島本村に由来します。『大阪府全志』は、その地が島上郡における河水の上流に位置することから、その意を採って名付けられたと記しています。
北山郷の北部にある山里であったことから「北山」と呼ばれ、のちに上組・下組の区分から下北山村となりました。
下郷町の町名は、会津地方の南部に位置することから「下の郷」を意味すると考えられます。古くからの郷村名を基にした地名で、周辺の会津盆地南縁の地理を反映しています。
村名は、甲斐の国から入って当地を治めた下條氏に由来するとされます。ほかに、伊賀良荘の南端に位置したことから「下ノ庄」が転じたとする説もあります。
勝央町の「勝」は、旧勝田郡勝田郷・勝間田の系譜を引く地名で、好字化の影響を受けつつ「かつまだ」と読まれてきた歴史に由来します。町名は昭和の合併で成立しました。
庄内町の地名は、庄内地方の「庄内」に由来し、さらに大泉荘の内側にあたる地域という説が有力です。庄内は荘園名に結びつく歴史的な地名として伝わっています。
庄原市の「庄原」は、古くからの地名「庄原村」に由来し、周辺の村名として定着したものです。市名は町制・市制を経て受け継がれました。
白井市の地名は、古くからの「白井郷」に由来すると考えられます。泉の豊かさや水の清らかさ、谷津田開発に関わる説も伝わります。
仙台藩白石城の家臣団が北海道開拓で入植し、郷里の名にちなみ「白石村」と命名されたことに由来します。現在の白石区名は、この村名を受け継いだものです。
古代の木簡に「温泉郷」と見えることから、温泉が湧き出る土地にちなむ地名と考えられます。2005年に浜坂町と温泉町が合併して新温泉町となりました。
「上五島」は五島列島のうち北部(上側)にある島々を指し、2004年に南松浦郡5町が合併して新設された際に「新」を冠して「新上五島町」と命名された。
新篠津村の名称は、明治29年に篠津村(現在の江別市篠津地区)から分村して成立した新しい村であることに由来する。「篠津」はアイヌ語に由来するとされ、川や湿地の地形を表した地名と考えられている。
新庄市の地名は、古くからの郷名・地名の流れを受けつつ、城下町としての新たな中心地を示す名称として定着したと考えられます。
須崎市の地名は、古くからこの地にあった「須崎」という地名を引き継いだものです。1954年の合併で市制施行し、現在の須崎市となりました。
匝瑳市の地名は、古くは「匝瑳郡」に由来し、郡名の成立には地形や古い地域名の継承が関わったと考えられています。現在の市名は、合併後に旧郡名を受け継いで定められました。
曽於市の「曽於」は、古くからの郡名・地域名に由来するとされます。鹿児島県の地名由来資料では個別の説明は見当たらず、現時点では由来の詳細は限定的です。
大子町の地名は、古くは「依上保(よりかみのほ)」と呼ばれた地域に由来し、のちに「保内郷」とも称されました。現在の町名は大子村の町制施行を経て定着したものです。
大曲市と仙北郡の頭文字「大」「仙」を採った合成地名。2003年の新市名称公募で最多の143件を集め、「新大曲市」との議論を経て臨時協議会で全会一致で決定した。
旧高島郡の名を受け継ぐ市名で、古くは『万葉集』『和名抄』にも見える「太加之萬」に由来すると考えられます。三尾国の高島宮にちなむ説もあります。
多可町の町名は、旧多可郡に由来する地名で、2005年の合併で誕生しました。町は山田錦、杉原紙、敬老の日の「発祥の地」としても知られています。
川崎市の行政区名で、旧高津町を中心とする地域名に由来します。『高津』の語源自体は諸説ありますが、区名としては旧町名を継承したものです。
郡名の「多気」を町名に採用したもので、語源には高くなった所を表す地形語や、竹の生育地、古語の「多木」などの説があります。
竹原の地名は、少なくとも1090年の「安芸国竹原荘」に見えるのが初見です。荘園名として成立した地名で、のちに竹原市の市名として受け継がれました。
太宰府市の地名は、古代の役所「大宰府」に由来し、中世以降は「太」の字が広く用いられて定着しました。歴史的な官衙の名を受け継ぐ、由緒ある地名です。
福島県伊達市の地名は、旧陸奥国伊達郡に由来し、伊達氏発祥の地であることにちなみます。郡名は奥州合戦後に常陸入道念西が伊達郡へ移り、伊達氏を名乗ったことに始まります。
町名は古代の鵜足郡にあった郡津に由来するとされます。港町として発展した歴史を背景に、古くからの地名が受け継がれました。
田布施町の地名は、中世から見える「田布施郷」に由来します。万之瀬川支流の堀川流域一帯を指す地名で、古くは「多布施」とも表記されました。
玉名市の市名は古代の郡名「玉名」を受け継いだものです。『日本書紀』の「玉杵名(たまきな)」から「たまいな」を経て「たまな」に変化したとされます。
市名は、平安時代の武将・坂上田村麻呂にちなむとされ、旧郡名の田村郡を受け継いで成立しました。地域には田村麻呂伝説が多く残り、地名にもその歴史が反映されています。
『日本大百科全書』は「町名は鎌倉時代における一帯の荘園名『多良木荘』によっている」と記します。ただし「たらぎ」という音の語義は未詳です。
田原本町の地名は、町域の中心となった田原本地区の名に由来します。近世には教行寺の寺内町、のちに平野氏の陣屋町として発展し、地名もその中心集落名として定着しました。
町名は旧郡名の築城郡に由来し、平成の合併で椎田町と築城町が一体化して成立しました。古代の「築城(ついき)」の名を受け継ぐ、歴史の深い地名です。
地名は古代の郡名「知多」に由来し、現在の知多市域を含む地域名が市名として受け継がれました。郡名の由来には知多臣氏にちなむ説などがあり、市名は知多半島の通称から採られています。
北谷町の地名は、古い地名「きたたん」に琉球の行政区画を表す「まきり」が付いた「きたたんまきり」に由来し、のちに漢字で「北谷」と表記されるようになりました。
長生村の名は、明治29年に長柄郡と上埴生郡が統合してできた長生郡に由来します。昭和28年の3村合併にあたり村名を一般公募し、多数の応募の中から郡名の「長生」が選ばれました。
町名は、旧庁南町の読みを受け継ぎつつ、古く見える「長南郡」の字を復活させた新命名で、長柄郡の南部を表す漢語表現とされます。
2005年の合併で成立した市で、市名は青森県西部一帯を指す広域地名・旧郡名「津軽」に由来する。「津軽」自体の語源は未詳。
都筑区の名は、奈良時代から昭和14年まで存在した都筑郡に由来します。区名には、歴史ある地名を継承するとともに「都を筑く」という新しいまちづくりの願いも込められています。
都農町の地名は古代の日向国児湯郡「都農郷」に由来し、古くは「津野」とも表記された。港や人々の集まる場所を意味する説、高まりのある地形を示す説などが伝えられている。
東員町は、合併で成立した際に町域の東部にあることと員弁郡に属することから「東員」と名づけられました。地名は行政上の位置関係を反映した比較的新しい町名です。
「東温」は、旧温泉郡の東部に位置することを示す名称で、合併前から地域名として用いられてきました。市名はこの「東温」を採用したものです。
中世の荘園名を復活させた新命名で、千葉氏一族の東氏が領有した荘園に由来します。町名は「東氏の荘園」を意味するものとして定着しました。
土岐市の「土岐」は古代の郡名に由来し、地形語の「とち」と同系で切り立った崖や急斜面を表すとする説が有力です。ただし由来には諸説あり、確定的な説明は残っていません。
東京都の特別区部は、旧東京市の区制を引き継いだ行政区域で、個別の地名由来というより区の総称として定着した名称です。
区名は古代の武蔵国豊島郡に由来し、郡名を受け継いで昭和7年に誕生しました。由来には「高所の島」や「豊かな島」などの説があります。
町名は、古代の地名「富加」に由来し、半布里(はにゅうり)に比定される地域の歴史を受け継いでいます。古代の戸籍史料や中世の加治田の地名が、現在の町名成立の背景を示します。
豊岡市の名は、円山川下流の城下町「豊岡」が豊岡藩・豊岡県・豊岡町へと引き継がれたものです。通説では天正8年(1580年)に宮部継潤が城崎を豊岡と改めたとされますが、「豊岡」という語そのものの語源には定説がありません。
市名は市内を流れる豊川に由来し、古くは「豊河」とも記されました。旧豊川村の地名が基になり、川名から地域名へ広がったと考えられます。
豊中市の地名は、明治22年に豊島郡の中央に位置することから「豊中村」と名付けられたことに由来します。のちに町制・市制を経て現在の市名となりました。
町名は、明治29年に豊島郡と能勢郡が合併してできた郡名「豊能」に由来します。1977年、東能勢村が町制施行する際にこの郡名を採って命名されました。
市名は市内を流れる那珂川に由来します。古くは「儺川」とも呼ばれ、さらに古代の儺県の名を受けた地名と考えられています。
中川町の地名は、天塩川の中流部に位置することから「中川」と呼ばれたもので、入植当初は無名村だったため所属郡名が採られました。
那珂市の地名は、古代の郡名「那珂」に由来し、もとは「中(なか)」を表す地名と考えられます。周辺の中心的な場所を示す呼び名が、好字二字化によって現在の表記になりました。
町名は、古代から続く「那賀郡」に由来し、さらにその語源は「長(なが)の国」や那賀川流域の古称にさかのぼると考えられています。川名・郡名が重なって受け継がれた地名です。
中津川市の地名は、中心集落の中津川村に由来し、さらに中津川という川名へと結びつくと考えられています。市名は合併や市制施行を経て定着しました。
中頓別町の地名は、アイヌ語由来の「頓別」に、頓別川の中流域にあることを示す「中」が付いたものです。
中之条町の地名は、吾妻郡の中心にあたる「中の条」に由来すると考えられます。古くは伊参郷に属したと伝えられ、地域の中心性を示す地名として受け継がれてきました。
中村区の地名は、古代の「中村郷」に由来し、「中心となる村」を意味すると考えられています。現在の名古屋市中村区は、明治期の中村町を経て区名として定着しました。
古代の郷名「山方郷」に由来し、最上郡の中心から見て山の奥寄り・山側の方向を示す地名と考えられています。
長柄町の地名は、古代の郡名「長柄郡」に由来する説が有力で、丘陵地の地形を表す「長原(ながらはら)」が転じたとする説もあります。町史では古くから「ナガラ」の地名が各地に見られることも示されています。
平安時代末期の荘園名「那古野荘(なごやのしょう)」に由来し、崩壊地形「ナギ」の野原を意味する地形語源説が有力とされるが、複数の説が並立し定説はない。
那須郡の「那須」と、旧烏山町の「烏山」を合わせた合成地名です。2005年の市制施行で誕生し、地域の歴史的な地名を引き継いでいます。
那須町の「那須」は、那珂川の中洲を意味する「なか川の洲」に由来するという説が有力です。のちに国名・郡名としても用いられ、地名として長く受け継がれました。
名取市の地名は、アイヌ語の湿田を表す語に由来するという説と、陸奥国名取郡にちなむ説が伝わります。古くからの地名が市名として受け継がれました。
平安時代の「楢葉郷」に由来し、古くからこの地域で用いられてきた地名が町名として採用されました。町の成立時に複数の候補の中から選ばれた名称です。
南砺市の「南砺」は、古くからの郡名・地域名である「砺波(となみ)」に由来し、砺波地方の南部に位置することを示す名称です。
新座市の地名は、奈良時代に置かれた新羅郡が「新座郡」へ改称されたことに由来します。古い郡名を受け継いで、昭和30年に新座町、昭和45年に新座市となりました。
新居浜の地名は、古くは「新居浜浦」と呼ばれた海浜地名に由来し、新しく開けた浜辺を表すと考えられています。市名は町制・市制施行の際にこの地名を受け継いで定着しました。
市名は、備中国に置かれた新見郷に由来するといわれています。古代の郷名を受け継いだ地名で、平成の合併で現在の市名として定着しました。
にかほ市の地名は、古くは「仁賀保」と表記され、地元の旧郡名に由来します。由来の詳細は諸説ありますが、歴史的な地名を受け継いだものとして知られます。
西粟倉村は、古くは「粟倉荘」に由来する地名で、周辺の荘園名や村名を受け継いで成立しました。明治の町村制施行時に西側の集落をまとめて村名となったと考えられます。
伊豆半島の西岸に位置する町で、町名は語の構成からみて旧国名の「伊豆」に方角の「西」を冠した形です。2005年の賀茂村との合併では、松崎町を含む三町村の合併協議が破綻したのち、三町村案でも使われていた旧町名「西伊豆町」がそのまま新町名に選ばれました。
西蒲区は新潟市西部の区名で、旧巻町などの合併により成立しました。中心地の「巻」は、アイヌ語説や洪水で「巻く」地形に由来する説が伝えられています。
村名は「白河の西に位置する郷」であることに由来します。江戸期にはこの一帯の村々が「西郷の村々」と呼ばれており、明治22年の合併でその呼称が村名になりました。
西成区の地名は、古代の「西生(にしなり)」に由来し、「上町台地の西側に新たに生まれた集落」を意味するとされます。のちに「西成」と表記が定着しました。
西米良村の名称は、古くから一ツ瀬川上流域一帯を指した「米良(めら)」に由来し、明治期に米良地域の西部に位置したことから名付けられた。
「西脇」は市の中心市街となった西脇区の名で、加古川の支流が西の谷に入る山脇の地であること、あるいは古くからの地名「都麻(津万)」の西側にあたることによるとされます。大正6年に津万村が町制を施行した際、村名ではなくこの区名が採られました。1952年の合併で市名を定める際には、「織都西脇」として全国に親しまれていることが選定理由に挙げられています。
日野郡の南部に位置することから「日南町」と名づけられました。1959年の合併で誕生した町名で、地理的な位置をそのまま表した由来です。
二戸市の「二戸」は、糠部地方の「戸(へ)」地名の一つで、牧場や行政区画に由来すると考えられています。数字を冠した連続地名の一部として知られ、由来には複数の説があります。
地名は、懐良親王の「王方(のうがた)」に由来する説と、旧来の小村名「直方(能方)村」の読みを受け継いだ説が伝わります。のちに縁起のよい「直方」の字が当てられました。
野木町の地名は、古くは「野木宮」や「野木郷」として見え、周辺の古代地名に由来する可能性があります。町名の直接の語源は明確ではありませんが、古い地名がそのまま受け継がれたと考えられます。
古代の加賀国能美郡に由来し、現在の市名へ受け継がれた地名です。「能」は「成し得る力」、「美」は自然の美しさを表すとされます。
芳賀町の地名は、郡名としての「芳賀」に由来し、古くから地域名として用いられてきました。由来の詳細は諸説ありますが、町名はこの郡名を受け継いだものです。
羽島市の名は、近代に羽栗郡と中島郡が合併してできた羽島郡に由来します。さらにその背景には、木曽川の洪水と流路変化による郡名の変遷があります。
市名は古く「波多野郷」と記された地名に由来し、秦氏に結びつける説もありますが、古代の開拓を示す確証は見つかっていません。江戸時代以降に「はだの」の読みが確認できます。
中世に糠部郡を一戸から九戸までに分けて統括した区分の、八番目にあたることに由来する地名。
浜松の地名は、もとは「浜津」に由来し、中世には「浜松」と呼ばれるようになったとされます。天竜川の西、浜名湖の東に位置する地名として定着しました。
町名は、山のふもとに広がる地形を表す「葉山」に由来すると考えられています。古くから葉山村として知られ、のちに町制施行で現在の町名が定着しました。
順正寺の阿弥陀如来絵像の裏書に見える「坂田郷」が起源とされ、「坂田」が「はんだ」と読まれるようになったという説が有力です。埴土の採取地を表す「ハニタ(埴田)」に由来する説もあります。
「飯能」は江戸時代の飯能村に由来し、町場の発展とともに地域を代表する名称として定着しました。語源には諸説ありますが、地元資料では「半納」や「判乃氏」などの説が紹介されています。
日置市の地名は、旧郡名の「日置」に由来します。鹿児島県の地名由来資料では個別の説明は見当たりませんが、地域名として古くから用いられてきた名称が市名に受け継がれています。
東吾妻町は、平成18年(2006年)に吾妻郡の吾妻町と東村が合併して成立した町です。「吾妻」は旧吾妻町が昭和31年に郡名から採った名で、「あづま」は日本武尊の伝説にちなむとされます。
東串良町は、明治22年の町村制施行で串良川を境に東西へ分かれた「東串良村」に由来し、昭和7年の町制施行で現在の町名となりました。地名は、旧来の「串良」に方角を示す「東」を付したものです。
大阪市の東住吉区は、住吉区の東側に位置することから名付けられました。分区時に特定の旧町名を採らず、地域間の対立を避けるために地理的位置をそのまま区名にしたとされています。
秩父盆地の東側に位置することから「東秩父」と名づけられました。村名は、秩父郡の東部にある地理的位置をそのまま表したものです。
上町台地の東側に新たに生まれた土地を意味する「東生(ひがしなり)」に由来し、古代の地名が区名として受け継がれました。
町名は三好郡の東部に位置することに由来し、合併協議で採用された名称です。ひらがなの「みよし」を用いて、親しみやすさや明るい印象も意識されました。
吉野郡の東側に位置することから「東吉野」と呼ばれるようになった村です。吉野地域の東部を示す地名で、村名は地理的位置関係に由来します。
郡名をそのまま町名に採った地名で、和歌山県日高郡に由来します。町名自体の語源は郡名にあり、郡名は古くは飯高郡と呼ばれていました。
市名は旧国名「常陸」と、中心集落の太田を組み合わせたものです。常陸は東北へ通じる平坦な道や、豊かな土地を表す語に由来するとされます。
神峰神社で徳川光圀が朝日の昇る景観をたたえたことにちなむとされ、日立村の村名から市名へ受け継がれました。日立製作所の社名もこの地名に由来します。
平成6年の合併で誕生した新しい市名で、旧国名「常陸」と旧郡名「那珂」を組み合わせて名付けられました。地域の歴史を反映した合成地名です。
日野町の地名は、古代の「日野牧」に由来すると伝えられ、肥えた耕地を意味する地名とみられます。平安期には牧や荘園として知られ、中世以降は城下町・商人町として発展しました。
平戸の地名は古代の松浦郡庇羅郷に由来するとされ、平戸瀬戸を押さえる要地として発展する中で島名・地名として定着した。
双葉町の町名は、明治期に標葉郡と楢葉郡が合併して「双葉郡」と名付けられた流れを受けたもので、二つの「葉」から成る地域を表します。町名そのものは、郡名に由来する地名です。
約1300年前に備後国の国府が置かれたことに由来する地名です。市内には当時の国府の名残を示す地割や遺跡が残ります。
武蔵国の国府が置かれた「国府の中」に由来する地名で、古代の政治拠点としての歴史を今に伝えます。
古代の安芸国で国府が置かれていたことに由来する地名です。現在も町内には当時の中心地だった名残が各所に残っています。
市名は、旧碧海郡の南部に位置することに由来します。1948年の市制施行時に、郡名の「碧海」と方位の「南」を組み合わせて名付けられました。
別府市の地名は、中世の荘園制度で特別に区分された「別符(べふ)」に由来するとされます。石垣荘の開発地を指した呼び名が、のちに別府へ転じたという説が有力です。
周防国の国府が置かれたことに由来し、国府・府中の「府」が市名のもとになったとされます。古くは三田尻・中関・宮市とも呼ばれました。
益城町の町名は、昭和の合併で郡内第一番目の合併町であることを示すために「益城」の名を採ったとされます。古くは益城郡の名があり、地域の歴史を受け継いだ地名です。
松浦市の名は古代の松浦郡に由来し、松の生える美しい海辺や入り江を意味するとされる。古くは「まつら」と読まれた歴史ある地名である。
那賀川の河口に防風林として松並木を植えたことから「松ヶ崎」の名が生まれたのではないか、という説話が伝わります。文書上は建暦元年(1211年)の「仁科荘松崎」が現存する最も古い例とされます。
平安時代の史料に見える「松原荘」に由来し、松の生い茂る原野や丹比柴籬宮の伝承と結びついて市名が受け継がれました。
三木市の名は中世の三木庄・近世の三木町を受け継いだものです。その「みき」の語義には、古代の郡名「美嚢(みなぎ)」が転じたとする説と、神功皇后に献じた御酒(みき)によるとする説の二つが伝えられています。
町名は旧三木郡に由来し、さらに『全讃史』に見える三つの大樹の伝承を受け継いだものとされます。地域の歴史と自然を重ねた地名です。
東和村・彦成村・早稲田村の三村合併に由来する「三」と、旧来の二郷半領にちなむ「郷」を組み合わせた地名です。
明治14年に百石村から分離して成立した三沢村を継ぐ市名だが、「三沢」という地名自体の由来は明らかでない。
「瑞穂」はみずみずしい稲穂を意味し、豊かな実りを連想させる地名です。区名は旧村名に由来し、瑞穂の語感を生かして名づけられました。
三鷹市の地名は、野方領・世田谷領・府中領にまたがる鷹場の村々が集まったことに由来するといわれます。江戸時代の鷹場と、三つの領にまたがる地勢が名前の背景です。
三野郡と豊田郡の合併で設置された三豊郡に由来し、その郡名を受け継いだ市名です。
南会津町は、会津地方の南部に位置することから名づけられた町名です。2006年の4町村合併で成立し、地名は地域の位置関係を端的に表しています。
市公式によれば、市名は明治初期に名付けられた郡名「南魚沼郡」に由来します。「南」には発展性・明るさがあり、魚沼地域の中核として発展したいとの願いが込められています。
南大隅町の地名は、旧郡名の「南大隅郡」に由来し、大隅半島南部に位置することを示す名称です。2005年の町村合併で現在の町名となりました。
南小国町の町名は、同じ阿蘇郡の小国町に対する南側の位置関係を示す地名です。旧来の「小国」に由来し、方角を添えて区別したものと考えられます。
箕輪郷の南に位置することから「南箕輪村」と名付けられました。地名の「箕輪」は、箕のような半円形の地形に由来すると考えられています。
市名は、美濃国加茂郡に由来します。1954年の市制施行時に、旧郡名を受け継いで「美濃加茂市」と名づけられました。
古くは三原郷と呼ばれ、明治22年の町村制施行で三原村となりました。地名の由来は検索結果からは明確に確認できず、村名の成立経緯が主な手がかりです。
市名は郡名の「美馬」に由来し、古くは馬の産地だったことにちなむ説や、「水間(みま)」の音変化で湿地を表すとする説があります。
「みやき」の名は、三養基郡の3町(中原町・三根町・北茂安町)が2005年に合併した際、住民公募によって選ばれた。佐賀県で初めてひらがな表記を採用した自治体名。
地名は古代の直営地「屯倉(みやけ)」に由来するとされ、倭屯倉の名を継ぐ土地と考えられています。町内には太子道や古墳群も残り、古代大和との結びつきが深い地域です。
宮田村の地名は、平安時代の『延喜式』や『倭名類聚抄』に見える「宮田」に由来するとされます。古くから東山道の宮田駅が置かれ、地域の中心地として発展しました。
明治22年に馬絹村字宮ノ前付近へ村役場が置かれたことに由来し、旧村名「宮前(みやさき)」を継承して現在の区名となりました。読みは「みやさき」から「みやまえ」へ改められています。
市名の「みやま」は、旧三池郡の「三」と旧山門郡の「山」を取った合成地名です。合併協議では平仮名表記が採用され、親しみやすさも重視されました。
市名は旧来の「三好町」に由来し、同名の市との重複を避けるため、2010年の市制施行時にひらがな表記の「みよし市」となりました。
三次市の地名は、古代からの郡名「三次(みよし)」に由来し、由来には諸説あります。
市名は古代からの郡名「三好」に由来し、三野・三津・三縄の三郷にちなむ説や、深い山間の「みよしの」の略とする説があります。
現地名は中世の湊・牟岐に由来し、牟岐川河口部の地名として知られます。古くは「牟岐郷」とも記され、海と港に結びついた地名です。
市名は市西部の向日丘陵先端にある向日神社に由来し、古くから地域名として「向日」が用いられてきました。豊臣秀吉期に門前町として「向日町」が成立し、その地名が市名へ受け継がれています。
村山市の地名は、古代の郡名である「村山」に由来すると考えられます。山の奥寄りの地域を示す地名がもとになったとされ、周辺の山形地方の歴史と深く結びついています。
最上町の地名は、古代の郡名「最上」に由来すると考えられます。最上郡の名は、中心地の最上郷にさかのぼるとされます。
本巣市の地名は、本巣郡に由来し、郡名は飛鳥期の「本簀郡」にさかのぼるとされます。山地から平地へ出る川洲の元になった土地を表す「元洲」の意味と考えられています。
本宮市の地名は、古くから地域の中心にあった「本の宮」すなわち本宮に由来すると考えられます。市名は旧本宮町の名称を引き継いだもので、由来の詳細は諸説あります。
町名は近世の森町村に由来し、「森のあった所」または「盛り」に通じる高くなった所を意味した可能性があるとされます。町の自然をそのまま表した名前とも伝えられます。
出雲国風土記に見える「安来郷」に由来し、スサノオノミコトが「吾が御心は安平けくなりぬ」と述べたことから名づけられたと伝わります。心安らかな意を表す古語「やすけく」にちなむ地名です。
市名は古代以来の郡名「野洲郡」に由来し、さらに「ヤス」は沖積平野や砂洲を表す古い地名とする説があります。古くは「安」「益須」とも書かれました。
旧来の「八頭郡」に由来する、地域住民になじみのある名称が町名として採用されました。
八代市の地名は、『日本書紀』に見える八代県(やつしろのあがた)に由来するとされます。古くは八代神社の門前町に起こった地名で、社(やしろ)に通じるという説も伝わります。
「やまが」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。ただし山鹿郡の名は『筑後国風土記』逸文や平城宮出土木簡に見え、奈良時代までさかのぼる古い地名です。
市名は旧郡名の山県郡に由来し、さらに古くは『御野国山方郡』として正倉院の最古の戸籍に見える地名です。『山の方』を意味する地名とされ、山地に囲まれた地勢をよく表しています。
平安時代の地誌「和名類聚抄」に記された「山方郷(やまがたごう)」に由来する古い地名。最上郡の中心部から見て山側の方角にある土地を「山方(やまがた)」と呼んだことが語源とされる。
村名は、東筑摩郡村誌に見える「古時土地ノ地形ヲ象ドリ山形郷ト称ス」との記述に由来するとされ、地形を表す名として定着したと考えられます。
山辺郡と添上郡の頭字を合わせて名づけられた村で、「山に添うて発展する」という願いが込められています。神野山を中心とする山里の景観とも結びついた地名です。
郡山の地名は、古代の郡役所「郡家(こおりのみやけ)」が置かれた山に由来するとされます。平安末期には文献に見え、城下町として発展した地名です。
大和村の名は、大和朝廷の時代にさかのぼるという伝承や、大和から来た人々が立ち寄った良港に由来するとされます。明治41年に大和浜から村名をとって大和村となりました。
「高田」に奈良盆地の古称である「大和」を冠した市名で、旧高田の地名を受け継いでいます。中世の高田郷・高田寺内町を基盤に、近代以降に市名として定着しました。
山梨市の地名は、古代の郡名・郷名である「山梨」に由来します。語源は「山を成す」や「山梨の木」にちなむ説があり、古くから地域名として定着していました。
山辺町の地名は、古代の郷名「山方」に由来し、山のある方角や山の奥寄りの地域を表したと考えられます。
与謝野町の「与謝」は、古代の郡名にさかのぼる地名で、狭い谷間を意味するとも、余社宮に由来するともいわれます。2006年に加悦・岩滝・野田川の3町が合併して成立しました。
吉賀町の地名は、旧村名の「吉賀」に由来します。町名は2005年の合併で成立し、地域の歴史的な呼称を引き継いでいます。
室町時代から呼ばれてきた「吉富郷」に由来して名付けられました。古くからの地名を受け継いだ町名です。
「吉野ヶ里」は2006年の町合併の際、日本最大の弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」の名に由来して命名された。「ヶ里」は古代条里制の土地区画「里(さと)」を示す。
吉見町の地名は、古くは「ヨクミユ」から「横渟」「横見」と変化し、のちに現在の「吉見」になったと伝えられます。町名は旧横見郡の歴史とも深く結びついています。
読谷村の地名は、古くは「はびら村」と記されたことがあり、のちに「読谷山(ゆんたんざ)」の呼び名が定着したとされます。沖縄語の呼称変化や表記の当て字が重なった地名です。
市名は旧国名の「陸前」と、中心地の高田に由来します。高田は地形や集落名として定着した地名で、気仙地域の歴史を引き継いでいます。
「栗東」は「栗太郡の東」に由来し、昭和29年に4村合併で栗東町が誕生したことにちなみます。平成13年に市制施行し、単独で市になった珍しい例です。
糠部を九ヶ戸四門制に区分した「戸」の一つで、奥入瀬川流域一帯を六戸と称したことによる地名。
古代の姓「若桜部」に由来するとされ、平安期の文献にも「若桜郷」として見える古い地名です。町名はこの地に住んだ若桜氏・若桜部にちなむ説が有力です。
若松区の地名は、旧若松町に由来します。町名の由来は諸説ありますが、若い松にちなむとする見方が一般的です。
和木町の地名は、町内の大字和木に由来する地名です。住居表示の実施により各大字と同名の町が成立し、現在の町名として定着しました。
「わづか」の地名は奈良時代の『万葉集』に見え、和豆香と表記されたのが初出とされます。もとは寺社の杣山・荘園として知られ、のちに皇室領を経て現在の和束町へつながりました。