語源
「五城目」は、読みも表記も何度か変わりながら今の形になった地名である。五城目町の説明によれば、その経過は次のとおりである。
- 起源は平安時代の地名**「率浦郷」**
- ここから鎌倉時代末期に**「五十目(いそのめ)」**という表記が使われはじめる
- 江戸時代中期には、同じ「五十目」を**「ごじゅうのめ」**と読むようになる
- 元禄年間ごろから**「五城目」**の表記が現れ、江戸時代末には目につくようになる
つまり「五十目」も「五城目」も、もとをたどれば「いそうら」という音に当てられた字であり、数の五とも城とも本来は関係がない。『ブリタニカ国際大百科事典』も「中世以来の郷村名は五十目(ごじゅうめ)」と記す。
とはいえ、「五城目」の字が定着したことには理由がある。町章の説明によれば、この地には中世に浦城・岡本城・砂沢城・馬場目城・山内城の五つの城があり、町章はこれを「目に配し」たものだという。五つの城のあった土地という理解が、この表記を支えてきたことになる。
行政上の町名として「五城目」が正式になったのは、明治29年(1896)1月18日、五十目村が五城目町となったときである。町の公式サイトは、この改称を「江戸時代の格好のいい表記を、町制を始めるに当たって採用した」と説明している。
改称を願い出た文書が残っている —— 理由は商売の信用
『五城目町史』は、県へ提出された願書の全文を収める。 明治28年(1895)9月27日、五十目村長・北嶋孫吉が秋田県知事・平山靖彦に宛てた「村名変更之儀ニ付願」である。そこには、改称を求める動機がはっきり書かれている。
殊ニ本村ノ位置ハ秋田市・船川港・土崎港、能代港、阿仁鉱山ノ中間ニアリテ各九里ノ道程ヲ隔ツ、実ニ四通五達ノ要衝ト謂フベシ。故ニ従来月六ケ度ノ市場アリテ日用品ノ売買ヨリ百貨ノ輸出入ニ至ルマデ商業ノ頻繁ナル郡内右ニ出ツルモノナカルベシ、本村ノ商況斯ノ如ク繁劇ナルニ従ヒ物産ノ販路モ亦益々拡張スル今日ニ際シ、依然村名ヲ襲用スルニ於テハ人々ノ感触ニ影響ヲ及ボシ、商業上ノ信憑如何ニ関係スルコト鮮小ナラザルヲ以テ町名ニ改称スルハ衆人ノ熱望ナリトス、依ツテ今般村会ノ決議ニヨリ前条ノ縁故ヲ以テ自今五城目町ト改称致度候条、特別ノ御詮議ヲ以テ願意御採用被成下度此段奉願候也
「村」のままでは商売の信用に関わる——これが願い出の芯である。六斎市が立ち、日用品から百貨の輸出入まで郡内随一の商いがあり、酒は管内第一の造石高で北海道まで送り出していた。その実態に「村」の名が釣り合わない、という訴えであった。縁起のよい字を選びたいという話ではない。
手続きも明らかである。村会の決議を経て村長が県へ願い出、明治29年1月18日の秋田県告示第4号で認められた。
明治二十三年法律第七十七号ニ依リ管下南秋田郡五十目村ヲ五城目町ト改称ス
願書の「故事」を、町史は誤りとする
願書は冒頭で、「五城目」こそ本来の名であり「五十目」はやむをえず名乗ったものだ、という由緒を述べていた。
本村ハ往昔五城目采女頭ノ居城ニシテ、浦大町・山内・馬場目・上樋口ノ城廓ヲ統轄シ五城目町ト称シテ一城市ヲ為セリ。後秋田騒動ノ際秋田城之助ノ為メニ五城主ハ悉ク滅サレ、城廓廃残シタルモ依然町名ヲ存シ、城之助奥州三春ニ徙サレ佐竹公御遷封アラセラルルニ及ビ憚ルトコロアリテ五十目村ト称ス
しかし『五城目町史』は、この由緒を事実として認めていない。 中世の『秋田氏分限帳』には「五十目兵庫」「五十目新三郎」とあって「五城目」の表記が見えず、この字が現れるのは元禄年間ごろの『奥羽永慶軍記』以降だからである。願書が語る「もとの名に復する」という筋書きは、改称を通すために整えられた物語だった可能性が高い。
そのうえで町史は、では何がこの表記を選ばせたのかを、次のように述べる。
**町政施行の願書にある五城目の故事の誤りは別として、新町名に五城目としたのはまわりに五つの城をひかえたその中心地という意味をこめてである。**この説は、イソノメからの転化説よりも、近い中世の史実をもとにしているだけに説得力をもっていて、いちがいに俗説といえない点もある。五つの城説は、城が五つではなくたくさんの城(館)という意味であろう。
由緒書きの細部は誤っていても、周囲に城館を従えた中心地だという自負そのものは中世の史実に裏打ちされている——というのが町史の見立てである。なお「五つの城」は文字どおり5つという意味ではなく、城館が多いことを表すと解している。
読みは「ゴジャウメ」——「ノ」は入らない
読み方も、この告示が決めている。
なお、「ゴジョウノ目」か「ゴジョウ目」かは、二九年一月一八日付「県報」の告示の部に掲載されているのが、今日に残る唯一の史料である。はっきりと**「ゴジャウメ」と読みがなをしてある。この読み方が正しい。「ノ」の字はない。**
村からの申請には「ゴゼウメ」と仮名が付されていた。その後いつからか「ゴジョウノメ」と呼ばれるようになったが、**告示に残る正式な読みは「ゴジョウメ」**である。
江戸時代末に「ゴジュウノメ」が一般的だったことは、石井三友『秋田繁昌記』の地名考からもうかがえる。同書は、市に集まる人びとが五条の道を十里四方からやってくるので「五条十里」の集まる所、すなわち五十目だと説明している。町史はこれを「イソノ目の説明にならない」としつつ、市を中心にした繁栄の様子がしのばれると評している。
歴史的変遷
| 時代 | 呼称 | 備考 |
|---|---|---|
| 平安 | 率浦郷 | 町名の起源とされる地名 |
| 鎌倉末期 | 五十目(いそのめ) | この表記が使われはじめる |
| 江戸中期 | 五十目(ごじゅうのめ) | 同じ表記の読みが変わる |
| 江戸中期〜後期 | 五城目 | 元禄ごろの『奥羽永慶軍記』に現れ、江戸末には目につくようになる |
| 明治22年(1889) | 五十目村 | 町村制施行により成立 |
| 明治29年(1896) | 五城目町 | 1月18日、秋田県告示第4号で五十目村から改称し町制施行。読みは「ゴジャウメ」 |
| 昭和30年(1955) | 五城目町 | 3月31日、五城目町・馬場目村・富津内村・内川村・大川村が合併して現在の町域となる |
地名の特徴
五城目町の地名は、音が先にあり、漢字が後から何度も当て直された過程がはっきり追える珍しい例である。「いそうら」→「いそのめ」→「ごじゅうのめ」→「ごじょうめ」と、表記に引きずられて読みまで変わっていった。
「五十目」を「ごじゅうのめ」と読み替えた江戸中期の段階を経て、元禄年間ごろには「五城目」の表記が現れる。中世にこの地へ城館が多くあったことは町章の由来にも記されており、五という数と城とを結ぶ理解がこの表記を支えてきた。誰がいつこの字を使いはじめたのかは分からないが、それを正式な町名に選んだ理由と手続きは、明治28年の願書と翌年の県告示によって追うことができる。
特産・名物
五城目町は、500年以上の歴史を持つ朝市文化と、豊かな森林、清らかな水に恵まれた自然環境を背景に、独自の産業と食文化を発展させてきました。
【米どころの味覚】 秋田の寒暖差と清流が育んだ五城目産の「あきたこまち」は、町の代表的な特産品です。豊かな自然の中で丹精込めて育てられたお米は、ふっくらとした艶やかさと、噛むほどに広がる優しい旨味が特徴です。また、ネコバリ岩のある馬場目川上流の清流を利用した「杉沢産 清流米」など、水資源を活かした高品質なお米が多数生産されています。
【職人技が光る工芸品】 町内には伝統的な産業に加え、地元の革職人が手がけるハンドメイド製品も人気です。レザーコースターやバッグなどのアイテムは、裁断から縫製まで一つひとつ丁寧に手作りされており、使い込むほどに深まる風合いが魅力の工芸品です。
【食文化と酒蔵の恵み】 五城目町の食卓を彩る名物の一つに「だまこ鍋」があり、地元食材をふんだんに使った郷土料理として親しまれています。また、清流の水を生かした地酒も豊富で、「青浦城」「赤浦城」といった純米吟醸無濾過生原酒など、蔵元ごとの個性が光る銘酒が楽しめます。