その他
既存の分類に収まらない由来、または由来の説がまだ定まっていない地名。
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「兵庫」の地名は、天智天皇の治世に現在の神戸市兵庫区付近に設けられた「兵の武器庫(つわものぐら)」に由来するとされる。廃藩置県時に兵庫港のある港湾都市の地名が県名に採用された。
徳川家の家紋「葵」にちなむ区名で、静岡市中心部の歴史と格式を表しています。政令指定都市移行に伴い2005年に設置された比較的新しい行政区です。
村名は粟国島の島名に由来します。「粟」は当て字で本来の形は「アグニ」とされ、語義は未詳です。表記は「亜哇郡尼」「粟島」を経て現在の「粟国」に至りました。
春から秋にかけて朝方に発生する幻想的な霧にちなみ、「あさぎり町」と名づけられました。盆地特有の気候と豊かな自然を表す地名です。
奄美市の「奄美」は、古代の文献に見える「海見(あまみ)島」に由来すると考えられます。市域の中心である名瀬の地名は諸説ありますが、定説はありません。
安城市の地名は、戦国時代の安祥城に由来する説が有力です。ほかに、安祥寺の荘園名や瑞祥地名とする説も伝わっています。
村名は村域をなす伊江島の島名によりますが、「いえ」という島名の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。
伊方町の「伊方」は古くからの地域名ですが、語源を説明する資料は確認できていません。愛媛県に多い「〜方」型地名の一つに数えられます。
「いくさか」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。明治8年に上生坂村・下生坂村ほかが合併して生坂村が成立しました。
伊仙町の「伊仙」は町内の集落名によりますが、語義を説明した資料は確認できず、由来は判明していません。
「いつき」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。球磨の歴史に五木が初めて登場するのは建久3年(1192年)の平河文書とされます。
「いで」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。平安時代から記録のある古い地名で、「井堤」「井出」「井隄」「兎手」などの表記も伝わります。
由来ははっきりしていません。村公式資料は、蝦夷の中央であったため「夷中(いなか)」と呼ばれそれが「田舎」になったとする説と、稲作の歴史から「稲家(いなか)」に関係するとする見方を紹介しています。
慶長5年に藤堂高虎が「今張」を「今治」と改めました。それ以前は「今針」「今張」と書かれ、「いまばり」という音が何を意味したのかは未詳です。
市名は、宇土市・宇土郡・下益城郡を合わせた県央地域の旧称「宇城」に由来します。平成の大合併で新設された比較的新しい市名です。
宇検村の「宇検」は村内の集落名によりますが、語義は判明していません。慶長14年(1609年)の記録に「大島うけん」として現れる古い地名です。
宇佐は古く「菟狭」「宇沙」と記された古代からの地名ですが、「うさ」という語が何を意味したかについては定説がありません。宇佐神宮は地名を冠した社名です。
臼塚古墳の入口に立つ石甲が「臼」と「杵」の形に似ていることから、「うすきね様」と呼ばれ、臼杵の地名が生まれたと伝えられます。
「浦襲(うらおそい)」が転じたとされ、津々浦々を支配する意の語に由来すると伝えられます。琉球の古い王都として栄えた歴史とも結びつく地名です。
「うるぎ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。江戸期の『下条記』に村名が見え、表記から読みを導けない難読地名としても知られます。
市名は広島湾に浮かぶ江田島の島名によりますが、島名の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。古くは「衣田島」とも書かれました。
大崎市の市名は、宮城県北西部を指す広域の地域名「大崎」に由来します。「大崎郡」という郡は存在せず、「大崎」の語義も未詳です。地域を治めた大崎氏は、この地名を姓としたとみる説が有力です。
近世以前は「大津」と称し、明暦・万治年間に「大洲」と改められました。もとの「大津」が何を指すのかを説明した資料は確認できず、語義は未詳です。
「横竹」と書いておおたけとする説、大きな滝があったとする説、竹が多いからとする説などがありますが、確実な根拠を持つ説明はありません。天平6年(734年)の『続日本紀』に「大竹川」の名が見えます。
もとは「大俵」と書かれた地名で、大田原氏(もと大俵氏)はこの地名から名乗りました。のちに表記が「大田原」に改められましたが、「おおたわら」の語義は未詳です。
大津町の「大津」は由来が判明していない地名です。戦国期には「大津」を名乗る武士が確認でき、その頃には地名として存在していたとみられます。
大野城市の地名は、天智4年(665年)に大野山(現在の四王寺山)へ築かれた朝鮮式山城「大野城」に由来します。市制施行前の大野町の名も、この古代山城にちなむものです。
「おおむた」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。古くからの地名を市名に継いだもので、「牟」の字を含むため難読地名としても知られます。
「おばなざわ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。地元では「おばね」という愛称で呼ばれています。
由来に確証ある定説はありません。古くは「海塚」とも書かれ、考古学的な貝塚に求める説、南郡と日根郡の境界の塚に求める説、海を掘って塚を築いたとする説などがあります。
「かしわざき」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。明治初期には一時「柏崎県」の名が置かれるなど、越後の地域名として重みをもってきました。
市史は加津説・神増説・加増説の3説を挙げますが、定説はありません。表記は「加増」「神増」「加津」から「加須」へ移り、なぜ「須」を「ぞ」と読むのかも説明されていません。
「喜界」は、1645年頃から見られる表記で、鬼界島・奇界島・貴海島などの異表記の中から、縁起のよい「喜」の字が定着したとされます。
「北島」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町名は町域の中心となった既存の地名「北島」を継いだものです。
市名は中世以来の「木付(きつき)」に由来します。1250年に入部した大友親重が地名の木付をとって姓としており、地名が先で氏名が後です。「きつき」自体の語義は未詳です。
行田市の市名は、忍城下の町名「行田」を昭和24年(1949年)の市制施行時に採ったものです。「行田」の語源には諸説ありますが、確実な根拠を持つ説はないとされています。
黒石観光協会は「地名の起源はいまもってはっきりしない」としたうえで、蝦夷の地を指す国栖(クニス)が「くるし」を経て「くろいし」に転じたとする見方を紹介しています。
小林市の地名は、中世に築かれた小林城とその城下に形成された集落に由来するとされる。古くは夷守や三ノ山などの呼称が用いられていた。
佐井村の地名は、斉明天皇5年の『日本書紀』に見える「イブリサエ」に由来するという説があり、古くからの地名として伝えられています。下北半島西端の港町として、海とともに発展してきました。
幸区の区名は、川崎市の行政区再編で誕生した名称で、住民に「幸い」が訪れるよう願いを込めたものです。
「佐久」は遅くとも866年編纂の『日本三代実録』に記載があり、それ以前から根付いていた古い地名と考えられます。ただし「さく」という音の語義は未詳です。
「佐倉」は、麻布を納める貯蔵庫の「あさくら」が転じた説や、「さ」が付いて「さくら」となった説が伝わります。古くから倉を建てて暮らした土地柄が地名にうかがえます。
村名は座間味島・座間味集落の名によりますが、「ざまみ」という語の意味を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。
由来に確定した説はありません。条坊制に由来する説、荘園制に関わる「散所」「三荘」「産所」などからの転訛説、京都の三条にちなむ説などが紹介されています。
三田市の「三田」は、金心寺の三福田(悲田・恩田・敬田)にちなむという説が広く知られますが、市の『三田市史だより』は音韻の面から疑問を示しており、由来は未詳です。
塩竈市の地名は、鹽竈神社に見られる「塩を焼くかまど」に由来する説が有力で、製塩と信仰の歴史を映す地名です。
色麻町の地名は、奈良時代の史料『続日本紀』に見える「色麻柵」にさかのぼるとされます。古くから「しかま」と読まれ、軍事拠点として記録された歴史ある地名です。
「しばた」の由来には新開発田説・州端説・アイヌ語説・諏訪田説の4つが伝えられており、定説はありません。難読地名としても知られます。
志免町の地名由来は、古くからの地名「志免」に基づくものですが、由来の詳細は公開資料からは明確に確認できません。現在は福岡都市圏の中心部に近い町として知られています。
『和名抄』に「しもつま」と見える古い地名で、現在の「下妻」の表記は鎌倉時代以降に定着したとされます。ただし「しもつま」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。
「しもにた」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町名は町域内の中心集落名「下仁田」を継いだもので、下仁田ネギ・下仁田こんにゃくの産地として知られます。
昭和区の区名は、1937年に元号の「昭和」から採られました。旧御器所村内での区名をめぐる対立を避けるため、中立的な名称として採用されたとされています。
昭和2年の合併で誕生した村名で、元号の「昭和」にちなんで命名されました。奥会津の山村として、からむし栽培の伝統でも知られます。
昭和村は、昭和の時代に誕生した合併村で、元号の「昭和」にちなんで名付けられました。群馬県利根郡に属し、近代の自治体名として定着しています。
新地町の地名は、古くは「新しい土地」を意味する「新地」に由来すると考えられます。周辺の開発や新田開発と結びついた地名として伝えられています。
古墳時代に須恵器が当地で生産されていたことに由来するといわれる町名です。古代の窯業と結びついた地名として伝わっています。
珠洲市の地名は、須須神社の「鈴」に由来する説が有力で、万葉仮名の須須・須受から珠洲の表記が生まれたとされます。古くは「スス」の岬を表す地名としても伝えられています。
宝積院(諏訪山)の縁起により、僧侶が山に籠もった「聖籠山」に由来すると伝えられる地名です。
『紀伊続風土記』は「名義は詳らかでない」としたうえで、泰地氏がこの地に住んだことから村名が起こったのではないかと推測しています。定説はありません。
多賀城市の地名は、古代の城柵・多賀城に由来します。「多賀」は「賀(よろこび)が多い」という意味を持つとされ、国家の安寧や繁栄を願う名と考えられています。
市名は中世以来の地名「竹田」を継承したものですが、「たけた」の語義を説明した確かな資料は確認できず、由来は未詳です。読みは「たけだ」ではなく清音の「たけた」です。
「ただおか」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。文献上は文禄3年(1594年)の検地に「忠岡村」として現れます。
「ただみ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。只見川の流域にあたる奥会津の町で、現在の町名は昭和の合併で定まりました。
「たつごう」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町内には大島紬の代表的な柄「龍郷柄」がありますが、これは地名を冠した名で、由来ではありません。
町公式が「地名の由来についてはっきりとわかっていません」と明記しています。竜が棲む湖が干上がって竜が天へ昇ったとする伝承などが伝えられています。
「たてばやし」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。応永22年(1415年)の『鎌倉大草紙』に「館林」の表記が見え、表記・読みは永禄以降に現在の形に定まったとされます。
「たなぐら」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町名は、元和8年に丹羽長重が入封して以降、棚倉城を中心に発展した城下町の名を継いだものです。
昭和30年に田丸町などが合併して成立した町で、町名は田丸城の古称「玉丸城(たまるじょう)」にちなむとされます。城は南北朝期に北畠親房が築いた砦に始まります。
村名は多良間島の島名によりますが、「たらま」という島名の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。
知夫村の地名は、航海の神・道触神(ちぶりのかみ)に由来すると伝えられ、島の名から村名へ受け継がれたとされます。隠岐諸島の南端に位置し、古くから海上交通の要地として知られました。
千代田区の区名は、江戸城の別名「千代田城」にちなむもので、城を中心に発展してきた地域性を踏まえて名付けられました。麹町区と神田区の統合にあたり、昭和22年に新しい区名として採用されました。
「つくみ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。津久見湾を三方から囲む地形と結びつける読み方もありますが、裏づけは取れていません。
村名は慶良間諸島の渡嘉敷島の島名によりますが、「とかしき」という島名の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。
町名は島名の「徳之島」を採ったものです。島名は『続日本紀』699年条の「度感(とかん)」にさかのぼるとされますが、その語義には定説がありません。
村名は伊豆諸島の利島の島名によりますが、「としま」という島名の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。明治40年の勅令で行政呼称が「利島村」に改められました。
「トナキ」の語源は不明です。沖縄語では「とぅなち」と呼ばれ、古くは「戸無島」の字が当てられたこともありました。村名は渡名喜島の島名を継いだものです。
「土庄」という地名の語源を説明する資料は確認できず、由来は未詳です。町名としては明治23年の土庄村発足、明治31年の町制施行を経て定着しました。
「富岡」の語義を説明する確かな資料は見あたらず、由来は未詳です。町としての富岡は慶長17年ごろ、代官中野七蔵の指導による集団移住で新たに開かれた町屋に始まります。
「とみおか」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町名は町内の中心的な集落名「富岡」を継いだもので、地名としては戦国期の記録にさかのぼります。
「取手」は、戦国時代にこの地へ築かれた砦に由来するという説が有力です。ただし、平安時代末の史料にも周辺地名が見えるため、正確な起源は断定されていません。
「ながのはら」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。町名は町域内の旧地名「長野原」を継いだもので、明治22年に10町村が合併して長野原町が成立しました。
「ながよ」の語義に定説はありません。嘉暦4年(1329年)の文書に「長与浦」と見え、「長井」「永江」とも記されました。神功皇后が長い夜を過ごしたことによるとする伝承も伝わります。
名護市の「名護」は、方音で「なぐ」と呼ばれる古い地名を漢字で写したものですが、その語義は判明していません。旧名護町は名護城を発祥とします。
「南部」は南部牧・南部郷として先に存在した地名で、1180年にこの地を与えられた加賀美光行が姓として名乗りました。地名が姓を生んだ側で、語義そのものは未詳です。
「なんもく」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。村の中央を南牧川が東流しており、川名と村名が同じ「南牧」を共有しています。
「ねば」の語義を説明する資料は確認できず、由来は未詳です。江戸時代中期の「信州伊奈郡郷村鑑」には「ねばね」の訓が付されており、古代・中世には三河国に属していました。
函館の地名は、室町時代に築かれた箱形の館に由来する「箱館」に始まり、明治期に現在の「函館」表記へ改められた。
町名は八丈島の島名によりますが、「八丈」という島名の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。
「ひえづ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。中世文書では「日江津」「比江津」とも表記され、元亀2年(1571年)に「日吉津」と改称されたとされます。
「日出」を「ひじ」と読む理由や語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。江戸時代には日出城を中心とする日出藩の城下町として栄えました。
大化の改新のころ、須磨関を守るために置かれた兵器庫「兵庫」に由来するとされます。のちに兵庫津の港町として発展し、区名として受け継がれました。
「ひらお」の語義を説明した確かな資料は確認できず、由来は未詳です。町名は町域の中心となる「平生」の名を継いだもので、江戸時代に記録のある地名です。
「ひらや」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。文献上の初出は天文2年(1533年)の「比良屋」で、のちに「平谷」と表記されるようになりました。
「富士」の語源は諸説あり定まっていません。古代の文献には「福慈」「布士」「布自」「不尽」「不二」「不自」などの表記が見え、平城京出土の木簡には「富士郡」の名が確認できます。
市公式が「諸説あるが定説はありません」と明記しています。北方の敵を「ふさぐ」土地とする説、福神信仰による佳字説、麻の古語「総(ふさ)」説、アイヌ語説、地形の「阜沙」説が挙げられています。
古殿町の地名は、代々の領主が隠居して八幡を守護した際の館「古記殿」に由来すると伝えられます。地名が先にあり、古殿八幡神社はその地名を冠したものです。
鉾田市の地名は、古代の武器や石槍などが多く出土した土地を意味する「鉾多」に由来する説が知られています。
「ましこ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。10世紀には宇都宮氏の郎党・益子氏がこの地に勢力を張っており、地名のほうが先にあったとみられます。
松田町は、平安時代後期に松田氏が本拠とした地名に由来するとされます。地名を姓にした松田氏のルーツとして知られ、町名もその歴史を受け継いでいます。
丸森町の「丸森」は由来が判明していない地名です。町は阿武隈川の南岸にあり、近世には舟運の要地として栄えました。
「みつけ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。近世には信濃川支流・刈谷田川の渡船場、市場町として発展しました。
「みなみまき」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。近世の検地帳などに村名が見え、明治22年に五か村が合併して現在の南牧村が成立しました。
「みぶ」の語義を説明した確かな資料は確認できず、由来は未詳です。皇子の養育にあたった部民「壬生部(乳部)」に結びつける説がありますが、当地についての出典は確認できていません。
「みやこ」の由来には港の転訛説・都物説・宮のある処説など複数の説が伝えられており、定説はありません。「宮古」の表記は中世文書に見えず、1618年の浜田家文書が初出です。
「宮古」の由来には諸説あり、確定していません。14世紀の中国側の記録に見える「密牙古」を宮古とみる説がありますが、解釈は定まっていません。
都城市の名は、14世紀に北郷義久が築いた「都之城(みやこのじょう)」に由来するとされる。都島に築かれた城が地名化し、現在の市名へと発展した。
村上市の「村上」は由来が判明していない地名です。中世から近世にかけて村上城の城下町として発展した地域名が、そのまま市名になりました。
「もてぎ」の語義を説明した確かな資料は確認できず、由来は未詳です。鎌倉期に八田知家の子・知基がこの地に城を築いて茂木氏を名乗っており、地名のほうが先にあったとみられます。
「もとぶ」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。沖縄語では「ムトゥブ」と発音され、1666年に今帰仁間切から分かれて伊野波間切が置かれたのが自治体としての始まりです。
「やいた」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。明治期の実業家・矢板武の苗字はこの地名から採ったと伝えられ、人名が地名の由来ではありません。
屋久島の「やく」は7世紀の記録にさかのぼる古い地名ですが、その語義には諸説があり定説はありません。町名はこの島名をそのまま採ったものです。
遊佐町の「遊佐」は延喜式・和名類聚抄に見える古い地名で、千年以上にわたり文字も音もほぼそのまま伝わってきました。ただし語義については定説がありません。
「よなご」の由来は定説を欠きます。火山灰性の細砂地形からとする説、『伯耆民談記』の「八十八の子」伝説、旧名を加茂としたことによるとする説などが伝えられています。
「よもぎた」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。村史には旧村名として古くから見え、「後潟村の北を蓬田村と云い、中沢、広瀬を合す」と記されています。
島名「与論」の語源には統一的な学術的定説がありません。島言葉では「ゆんぬ」と呼ばれ、『おもろさうし』には古名「かゑふた」が見えます。
利府町の地名は、平安時代から知られた「十府(十符)の菅薦」に由来し、のちに佳字の「利」と「府」を当てて現在の表記になったと考えられています。
伊達政宗が造営した若林城に由来する区名で、城下町としての歴史と政宗の晩年の記憶を今に伝えます。