73件の地名を収録
芝川と鴨川に挟まれた台地上にあることから、「上(高台)」と「尾(山の尾根)」を合わせた地名といわれます。中山道の宿場町として発展し、近代以降は鉄道開通と工業化で市街地が広がりました。
朝霞市の名は、昭和7年の町制施行時に、東京ゴルフ倶楽部名誉会長の朝香宮にちなんで改称されたことに由来します。旧村名の膝折村からの改称で、近代の町名制定の経緯が色濃く残る地名です。
町名は、江戸時代にこの地で治水や新田開発に功績を残した伊奈備前守忠次をはじめとする伊奈氏にちなみます。
市名は旧入間郡からの借用で、古くは「入間野」と呼ばれた地域名に由来します。語義は「入り込んだ谷間・低地」を表すとする説が有力です。
小鹿野町の地名は、平安時代の『和名抄』に見える「巨香郷(おかのごう)」にさかのぼるとされます。のちに小鹿野へ転じ、江戸時代には市場町として発展しました。
小川町の地名は、町内を流れる小川に由来すると考えられています。古くから和紙や商業で栄えた土地で、周囲の山々と槻川がつくる地形も町名の背景にあります。
地名は「沖側(おきがわ)」や「起き川(おきがわ)」に由来するという説があり、広々とした田畑や川の水源地を表したと考えられています。由来には諸説ありますが、いずれも地形や水に関わる説が有力です。
平野と山地の接点にあり、尾根や峠を越える地勢に由来する「尾根越し(おねごし)」「尾越し(おごし)」が転じたとされます。難読地名として知られ、越生郷の古い地名も伝わります。
春日部の地名由来は定説がなく、御名代部に由来する説と、川沿いの地形に由来する説が知られています。春日部氏起源説は成り立たないとされています。
加須の地名は、古くは「加増」「神増」とも書かれ、元禄期ごろまでに「加須」が定着したとみられます。由来の確定説はなく、語源は未詳です。
町名は神流川(かんながわ)にちなむとされ、1954年の合併時に住民投票で新たに命名されました。周辺には金鑽神社など、神流川流域の歴史と結びつく地名・信仰が残ります。
昭和29年の合併時に、県内で最も北に位置することや円満な農村であることなどから「上里」と名付けられました。町名は「上」に位置する地理的特徴を反映したものです。
川口市の地名は、荒川と芝川の合流点に由来する「川口」から来たとされます。もとは「小川口」とも記され、川の合流地を示す地名です。
川越市の地名は、入間川を越える土地を表す「河越」や、氾濫で肥沃になった土地を表す「河肥」に由来するという説があります。中世には河越氏の名で知られ、のちに「川越」と表記されました。
荒川・入間川・越辺川などに囲まれた低地にあることから、川の中の島を意味する地名と考えられます。古くは川島郷の遺称地ともされ、河川に囲まれた地形が名の由来です。
北本市の地名は、同名の本宿村があったため北にある本宿村を「北本宿村」としたことに始まります。のちに駅名や町名へ受け継がれ、現在の「北本」となりました。
久喜の地名は、自然堤防などの小高い地形を表す説が有力です。ほかに「久木」の当て字や窪みを意味する説も伝わりますが、いずれも地形に由来すると考えられています。
熊谷市の地名は、熊を退治したという説、神谷(くまけや)説、曲谷(くまがい)説など諸説あります。平安時代後期までにはすでに地名として成立していたと考えられています。
「国府の州(こくふのす)」が転じたとされ、後にコウノトリ伝説から「鴻巣」の字が当てられたと伝わります。市公式は諸説あるとしており、歴史と伝承が重なる地名です。
古くは「越ヶ谷」「腰ヶ谷」などと表記され、自然堤防上の土地や地形に由来する地名と考えられています。江戸期の越ヶ谷郷・越ヶ谷町を経て、現在の越谷市名に定着しました。
行田市の地名は、旧市名の「忍」とともに、古くからの地名「行田」に由来しますが、その起源は諸説あり確定していません。市域の大字埼玉は「埼玉県」名発祥の地として知られます。
古代に「前玉(さきたま)」と呼ばれた湿地帯の地形に由来する地名で、「先(突き出た場所)」と「玉(水が溜まる)」が組み合わさり、水辺のそばを意味する。
市名は、中心集落の坂戸に由来し、地名は坂戸判官教明が当地に住したことにちなむと伝えられます。古くから日光脇往還の要地として発達した地名です。
幸手市の地名は、古くから伝わる「薩手(さって)」に由来するとされ、日本武尊の伝承と結び付けて語られています。宿場町として栄えた歴史の中で地名が定着しました。
市名は、周囲の山々に狭く長い地形が連なることから「狭山」と呼ばれたとする説が知られます。江戸名所図会に見える説明が代表的です。
市名は新編武蔵風土記稿などに見える「志木郷」にちなむとされ、明治7年の合併後に志木宿と名付けられたことが由来です。現在の市名は昭和45年の市制施行時に定められました。
白岡の地名は、貝塚の貝殻が光る岡に見えたという説や、白い鳩が舞った白い岡に由来するという説などが伝わっています。
杉戸町の地名は、杉の木が茂る渡し場や「杉津」「杉渡」に由来するとされ、古利根川の渡場・宿場として発達した歴史を持ちます。
草加市の地名は、日光街道の宿場整備の際に草を用いて道を開いたことから「草加」と呼ばれたという伝承が広く知られています。家康が「草も役に立つ」と名付けたとも伝えられます。
秩父の地名は、アイヌ語系の解釈や「知々夫彦」など複数の説があり、決定的な定説はありません。地形や水流に由来するという見方が有力視されています。
鶴ヶ島市の地名は、湿原の中の島状の地に鶴が巣をつくったという伝承に由来するとされます。近世の小字名にちなむとする見方もあります。
平成18年の合併で誕生した町名で、旧都幾川村と玉川村を流れる都幾川にちなみます。都幾は「都幾山」から、さらに「ツキ(高くなった所)」に由来すると考えられています。
所沢の地名は由来が確定していませんが、古い資料に見える「野老沢」にちなみ、ヤマイモ科のトコロ(野老)に結びつけて説明されることが多いです。
戸田市の「戸田」は、近世の通称に由来し、「ト(高所)」+「タ(接尾語)」や湿地を表す地名とする説があります。古くは「土田」と書かれた例も見られます。
荒川の流れが長く静かな「瀞」となって続くことから、長瀞の名がついたとされます。町名は景勝地・長瀞に由来し、自然景観を表す地名です。
町名は町の中央を流れる滑川に由来し、その川名は泉から湧き出る水が滑らかに流れる様子、またはアイヌ語由来とする説が紹介されています。
新座市の地名は、奈良時代に置かれた新羅郡が「新座郡」へ改称されたことに由来します。古い郡名を受け継いで、昭和30年に新座町、昭和45年に新座市となりました。
蓮田市の地名は、蓮華院弥陀堂に由来するという伝承が知られています。沼地に咲く蓮の花にちなむ説や、「はしど(橋処)」が転じたとする説も伝わります。
鳩山町は、合併時に町の中央にあった「鳩山」の地名を採って名づけられました。平和の象徴であるハトと、周辺の地名を合わせた名称とされています。
羽生の地名は、埴輪や埴生(はにふ)に由来する説があり、土地の性質を表す古い地名と考えられています。市名としては中世以降に広まりました。
「飯能」は江戸時代の飯能村に由来し、町場の発展とともに地域を代表する名称として定着しました。語源には諸説ありますが、地元資料では「半納」や「判乃氏」などの説が紹介されています。
秩父盆地の東側に位置することから「東秩父」と名づけられました。村名は、秩父郡の東部にある地理的位置をそのまま表したものです。
市名は、もともとの「松山」に方角を示す「東」を付け、四国の松山市との混同を避けるために定められました。1954年の市制施行時に現在の市名となっています。
日高市の地名は、1955年に成立した日高町に由来し、住民公募で「日が高く昇る」という瑞祥的な意味を込めて名付けられました。
深谷市の地名は、低湿地を意味する「フカ」+「ヤ」の反復地名とされ、地形に由来する説が有力です。古くは湿地や谷あいの土地を表したと考えられています。
昭和31年の合併で成立した富士見村に由来し、富士山がよく見える土地であることから名づけられました。瑞祥的な意味合いを持つ地名です。
市名は、1993年開業のふじみ野駅に由来し、2市2町合併構想の中で生まれた名称がそのまま採用されたものです。合併後の新市名として選ばれ、2005年の市制施行時に正式な市名となりました。
本庄市の地名は、中世にこの地を拠点とした本庄氏の名に由来します。城下町から中山道の宿場町へと発展した歴史が、地名の定着を支えました。
松伏町の地名は、松の樹形が伏せ松であったことに由来するという説と、河川がつくる自然堤防の「ぶし」に松が生えた地形由来説の2説が伝わります。
東和村・彦成村・早稲田村の三村合併に由来する「三」と、旧来の二郷半領にちなむ「郷」を組み合わせた地名です。
1954年の合併時に住民投票で採用された新しい町名で、「美しい里」を意味する瑞祥地名です。
皆野町の地名は、広大な原野を意味する地形に由来すると伝えられます。古くは皆野之郷、江戸期には皆野村として見え、交通の要衝として発展しました。
百間村の「宮」と須賀村の「代」を合わせて名付けられた町名です。昭和30年の合併に際し、公募で選ばれました。
『伊勢物語』に見える「三芳野の里」にちなみ、洪積台地の原野を美称した「三芳野」から生まれた地名です。合併時に同名地が多かったため「野」を省いて三芳村となり、後に三芳町へ改称しました。
毛呂山町は、旧毛呂村と山根村の合併で成立した合成地名です。「毛呂」は集落や小高い地形を表す語に由来するとされ、毛呂氏の本貫地としても知られます。
八潮市の地名は、潮止村・八條村・八幡村の合併時に、それぞれの名称から一字ずつ取って名付けられた合成地名である。
横瀬町の地名は、町の中央を横に貫く川の瀬(浅瀬)に由来するとされる。丹党の武士「横脛(よこすね)」が転じた地名との説もあり、中世には鎌倉武士団・丹党の本貫地であった。
吉川市の地名は、低湿地を流れる川にアシが多く生えたことから「芦川(よしかわ)」と呼ばれたことに由来するとされます。のちに「芦」を「吉」の字で表したと伝えられます。
吉見町の地名は、古くは「ヨクミユ」から「横渟」「横見」と変化し、のちに現在の「吉見」になったと伝えられます。町名は旧横見郡の歴史とも深く結びついています。
『新編武蔵風土記稿』では、鉢形城落城後に各地から人々が集まって住んだことが由来とされます。中世城郭の周囲の集落を指す語に由来するという説もあり、「人が寄る町」を象徴する地名です。
町名は昭和初期、本多静六博士が槻川周辺の景観を京都の嵐山になぞらえて「武蔵嵐山」と名付けたことに由来します。のちにこの呼称が町名として採用されました。
市制施行時に旧町名の「大和」が使えなかったため公募で新市名が決まり、「和」は平和、「光」は栄光や前進を表す願いが込められました。
地名の由来には「蕨」説と「藁火」説があり、植物のワラビにちなむ説や、藁を焚く火に由来する説が伝えられています。文献上の初出は14世紀の「蕨郷上下」です。