歴史的事件由来
合戦・開府・災害など、その地で起きた出来事にちなむ地名。
116件収録
「岐阜」の地名は1567年に織田信長が美濃を攻略した後、旧地名「井口」を改称して命名したものである。中国の聖地「岐山」の「岐」と孔子生誕地「曲阜」の「阜」を組み合わせ、天下統一の志を込めた地名とされる。
「京都」は「首都・みやこ」を意味する漢語に由来し、794年の平安京遷都以来の地名である。「府」は明治政府が東京・大阪・京都の三大都市にのみ与えた特別な行政区分で、政治・文化の中心として他の県と区別された。
古くは「隈本」と書き、「隈(くま)」は川や山が曲がりくねった入り組んだ地形、「本(もと)」は中心地を指すとする地形説が有力。慶長12年(1607年)に加藤清正が「隈」の字を嫌って「熊」に改めた。
「高知」の地名は、山内一豊が鏡川と江の口川に囲まれた地形から「河中山(こうちやま)」と命名したことに由来する。水害連想を嫌い「高智」→「高知」と改字され、城名・城下町名から県名へと引き継がれた。
『肥前国風土記』は「佐賀」の起源として、日本武尊が楠の繁茂を見て「栄の国」と呼んだ説と、佐嘉川の荒ぶる神を鎮めた賢女にちなむ説の2つを伝える。ほかに坂・逆・洲処の転訛説もある。
「静岡」の地名は明治初期に命名された比較的新しい地名で、城下町の北西にある賤機山(しずはたやま)に由来する。「賤(しず)」の字が身分の低さを連想させるため、「静(しず)」の字に改めて「静岡」とした。
「東京」の名は1868年(明治元年)の明治天皇の詔によって「江戸」を改称したもので、「東の京(みやこ)」を意味する。京都に対する東の都として命名され、日本の首都となった。
「徳島」の名は1585年(天正13年)、蜂須賀家政が吉野川河口の三角州に築いた城を「徳島城」と命名したことに由来する。島状の地形と縁起の良い「徳」の字を組み合わせた命名とされる。
「富山」の地名は室町時代の「外山(とやま)」に由来し、呉羽山の外側(東側)に広がる地域を意味する。江戸時代に縁起のよい「富山」の字に改められ、廃藩置県で県名に採用された。
1600年の関ヶ原の戦い後、筑前国を与えられた黒田長政が、先祖ゆかりの備前国(岡山県)の地名「福岡」を新たな城下町に名付けたことに由来する。
文禄年間(1592〜1593年)に木村吉清が「杉目城」を「福島城」と改称したことに由来する。吹島(ふくしま)が転じた説と、縁起を担いで「福」の字を用いたとする説がある。
「北海道」の名は1869年(明治2年)に探検家・松浦武四郎の提案により「蝦夷地」を改称したもの。「北加伊道(ほっかいどう)」の「加伊(カイ)」はアイヌの人々の自称に由来し、後に「海」に改められた。
「和歌山」の名は1585年(天正13年)、豊臣秀吉が紀伊を攻略した際に、名勝「和歌の浦(わかのうら)」にちなんで命名したとされる。城と城下町に「和歌の山」の名が与えられ、以後「和歌山」として定着した。
会津若松市の「会津」は、古くは川や水辺が合う場所を表す「相津」に由来するとされ、のちに「会津」と表記されました。市名の「若松」は蒲生氏郷が城下町整備の際に改称したものです。
昔の「吾勝野(あがつの)」が二つに分かれ、「アカ村」と「ツノ村」になったという伝承が地名由来として伝えられています。景行天皇の言葉にちなむ説が、村名の成立を説明します。
有田市の地名は、古代の郡名である有田郡に由来します。もとは安諦郡と呼ばれ、平城天皇の諱を避けて改称されたと伝えられます。
飯塚市の地名には、神功皇后の伝説に由来する説と、飯を炊いた塚にちなむ説の二つがあります。市の公式案内ではこの二説が紹介されています。
諫早の地名は中世の『伊佐早』に由来し、戦国時代末期に領主となった龍造寺氏が『諫早』の表記へ改めたとされる。
江戸時代初期、伊勢山田の曽右衛門らが千手ケ原を開き、伊勢神宮を勧請して鎮守としたことに由来すると伝えられます。伊勢の国の人々が住みついたことから「伊勢原」と呼ばれるようになったとされています。
古くは板来・板久とも書かれ、常陸国風土記では「伊多久」の郷と記された地名です。水郷の要衝として栄え、のちに潮来へ改称されました。
村名は、古代の神話・伝説で阿蘇地域を治めた健磐龍命の嫡孫が生まれた地とされることに由来すると伝えられます。
神功皇后が応神天皇を出産した「産み」に由来するとされ、安産の地名として知られます。古事記・日本書紀の伝承と結びついた由来が伝わっています。
「大阪」は上町台地北端の坂道地帯を指した「小坂(おさか)」が「大坂」へ改称され、明治時代に縁起を考慮して「阪」の字に変えた地名。
「小値賀」の地名は、景行天皇が遠方に見える島を「近い島」として「小近(おちか)」と命名したことに由来し、古事記では五島列島全体が「知訶島(ちかのしま)」と記されている。
鎌倉時代に北条時頼が当地の最明寺に宿泊したという伝承にちなみ、「御宿」の名が生まれたとされています。町役場では、この説が広く町民に伝えられている由来として案内しています。
鏡沼にまつわる伝説から「鏡石」の名が生まれたとされます。町名は、沼の鏡のような景観や悲恋の物語に由来する地名として伝えられています。
笠置町の地名は、笠を石の上に置いたという伝承に由来するとされます。笠置山の信仰や修験の歴史と結びついた地名です。
笠松町の地名は、旧称「傘町」を改めたもので、陣屋移転の際に「笠松」と名付けられたと伝わります。木曽川沿いの港町として発展し、江戸期には笠松陣屋が置かれました。
神武天皇が畝傍山の東南に建てた「橿原宮」に由来するとされる市名です。記紀の伝承に結びつく建国ゆかりの地として知られます。
勝山市の地名は、1574年の一向一揆が平泉寺を攻め落とした際、拠点とした村岡山を「勝ち山」と呼んだことに由来すると伝えられます。のちに「勝山」の字が当てられ、市名として受け継がれました。
戦国期の落人伝承に由来し、松本勘解由介がこの地を「葛尾」と名付けたと伝えられます。村名は葛尾城の名を背景にした伝説と結びついています。
亀岡市は、もとは亀山と呼ばれ、明治2年に伊勢の亀山との混同を避けるため亀岡へ改称されたと伝えられます。亀山の名は明智光秀の時代にさかのぼるとする説が有力です。
「神埼」の地名は肥前国風土記に記され、景行天皇の巡幸の際に悪さをする神を鎮めたことから「神幸(かみさち)の里」と呼ばれ、後に「神埼」となったとされる。
北広島市の地名は、明治時代に広島県から入植した開拓団に由来する。市制施行時に広島市との重複を避けるため「北広島市」となった。
1567年に織田信長が稲葉山城(現・岐阜城)へ入城した際、禅僧・沢彦宗恩の進言を受け、中国の聖地「岐山」と「曲阜」から一字ずつ取って命名した雅称に由来する。
君津市の「君津」は、明治期に成立した郡名に由来し、木更津の「君不去(きみさらず)」伝説を略したものと伝えられます。市名としては昭和の合併で受け継がれ、地域の中心を示す名称として定着しました。
「京都」は「みやこ(京)の土地(都)」を意味する普通名詞が固有名詞化したもので、794年の平安遷都に始まり平安時代後期に定着した地名。
町名は、町内の伐株山(きりかぶさん)にまつわる伝説と結びつけて語られています。山の切り株の民話が「くす」の名の由来として伝えられています。
松の木に星が降ったという伝承から「くだまつ」と呼ばれるようになったとされます。百済津(くだらつ)に由来する説も伝わる地名です。
空海が母を月に九度訪ねたという慈尊院の伝承にちなむ地名とされます。ほかに地形や古語に由来する説も伝わります。
「熊本」は元来「隈本」と表記され、「隈(くま)」は川や山が曲がりくねった入り組んだ地形、「本(もと)」は中心地を指すとする地形説が有力。慶長12年(1607年)に加藤清正が新城の完成に合わせて「熊」の字に改めた。
倉吉市の地名は、岩倉城落城に伴う移住伝承に由来し、「倉」と「吉」を取ったとする説が知られています。ほかに、住吉神社のある神坂と一体の町になったことにちなむ説も伝わります。
「高知」の地名は「河中山城(こうちやまじょう)」に由来し、水害への恐れから「河中」の字を避けて「高智」と改め、さらに「高知」と表記された。川に囲まれた地形と水害の歴史が名前に刻まれている。
徳川家康が当地に御殿の造営を命じたことに由来し、御殿の周辺に新町が形成されたことで「御殿場」と呼ばれるようになりました。
『肥前国風土記』は「佐賀」の起源として、日本武尊が楠の繁茂を見て「栄の国」と呼んだ説と、佐嘉川の荒ぶる神を鎮めた賢女にちなむ説の2つを伝える。ほかに坂・逆・洲処の転訛説もある。
幸手市の地名は、古くから伝わる「薩手(さって)」に由来するとされ、日本武尊の伝承と結び付けて語られています。宿場町として栄えた歴史の中で地名が定着しました。
椎葉村の地名は、那須大八郎宗久が椎の葉で仮屋の屋根を葺いたことに由来すると伝えられる。平家伝説と深く結びついた歴史的な地名である。
能登半島西岸の志賀町は、約1300年前に福岡の志賀島から阿曇族の一部が移り住んだことに由来すると伝えられます。海の民との結びつきが強い地名です。
四條畷市の名は、南北朝期の古戦場「四条縄手(畷)」に由来する説と、四條畷神社の名が広まって市名になった説が伝わります。
明治2年(1869年)に「府中」から改称された際、近くの賤機山(しずはたやま)に因んで「賤ヶ丘」とする案が「賤(いやしい)」を理由に修正され、「静岡」と命名された。
天智天皇がこの地の人々の「志」の高さに感激し、「志布志」と名付けたという伝承が地名の由来です。布を献上した妻女と侍女の話にちなむ説として伝えられています。
白岡の地名は、貝塚の貝殻が光る岡に見えたという説や、白い鳩が舞った白い岡に由来するという説などが伝わっています。
仙台藩白石城の家臣団が北海道開拓で入植し、郷里の名にちなみ「白石村」と命名されたことに由来します。現在の白石区名は、この村名を受け継いだものです。
新城市の名は、旧来の「新城(しんじょう)」と区別するため、奥平信昌が築いた新しい城を「新城(しんしろ)」と呼んだことに由来します。戦国期の城名が市名として定着しました。
奈良県十津川村の大水害を受けて移住した人々が開いた町で、「新十津川」は母村・十津川に由来します。町名には、移住者が新天地で再出発する思いが込められています。
伊達政宗が慶長5年(1600年)頃に国分氏の居城「千代城」を「仙臺」に改めた地名。「仙臺」は中国・唐代の漢詩に由来し、仙人が住む高台・聖域を意味する。
草加市の地名は、日光街道の宿場整備の際に草を用いて道を開いたことから「草加」と呼ばれたという伝承が広く知られています。家康が「草も役に立つ」と名付けたとも伝えられます。
『詩経』の「鳳凰鳴矣于彼高岡」にちなむ瑞祥地名で、前田利長が1609年に高岡城とともに名付けたと伝わります。城下町として開かれ、のちに商工業都市へ発展しました。
高崎市の地名は、和田の地に城を築いた井伊直政が、白庵の進言により「成功高大」の意味を取って改めたと伝えられます。城下町としての発展とともに定着した地名です。
南北朝時代に菊池武光が刀を洗ったという伝承に由来するとされる地名です。表記は「太刀洗」と「大刀洗」が混在しています。
田野町の地名は、奈半利川の治水と開墾によって生まれた「田野郷」に由来すると伝えられます。原意は段丘状の地形を表す「棚」に関わるとする説もあります。
平安時代中期ごろ、熊野修験者が当地に流入し、紀伊国の地名にちなんで集落名をつけたことが由来とされます。なお「原」は、丘陵地の樹木の育たない土地を指す語です。
「太良」の地名は肥前国風土記の「託羅(たら)郷」に由来し、景行天皇が「食物が豊かに足りる(豊足・たらい)」と称えたことで命名されたとする伝承がある。
景行天皇が大泊港に船をつながれたという故事に由来すると伝えられる町名です。港に船をつないだことから「津奈木」と呼ばれるようになったとされます。
津山の地名は、津山藩主・森忠政が鶴山に築城したことに由来するとされます。城下町として発展した歴史が、現在の市名に受け継がれています。
天童市の地名は、舞鶴山に天から童子が舞い降りたという伝承に由来するとされます。のちに天童神社の信仰と結びつき、現在の表記が定着しました。
地名は「鴇が根(ときがね)」に由来するとされ、最福寺背後の山嶺がトキの頭に似ることから転訛したという説が有力です。江戸期には徳川家康の御成を機に「東金町」と称したと伝えられます。
「徳島」は天正13年(1585年)に蜂須賀家政が吉野川河口の三角州に城を築いた際に命名した地名。旧称「渭津」から改名し、「島」は川に囲まれた三角州の地形を、「徳」は縁起の良い美称を表す。
三山時代に汪応祖が漫湖を望む高台にグスクを築き、「とよみ城」と美称したことに由来するとされます。のちに「とみぐすく」へと読みが変化しました。
明治22年の町村制施行で、十三の里にちなむ「富里村」として成立し、のちに市制施行しました。地名は開墾の順序と美称を組み合わせたもので、七栄や十倉なども開墾順に由来します。
越中守護所から見て呉羽丘陵の外側にある地域を「外山(とやま)」と呼んだことに由来し、安土桃山時代に佐々成政の入城を機に縁起の良い「富山」の字が定着した。
豊岡市の名は、円山川下流の城下町「豊岡」が豊岡藩・豊岡県・豊岡町へと引き継がれたものです。通説では天正8年(1580年)に宮部継潤が城崎を豊岡と改めたとされますが、「豊岡」という語そのものの語源には定説がありません。
豊橋市の地名は、豊川に架けられた橋に由来し、明治初期に藩名改称の候補として採用された「豊橋」が定着したものです。旧称の吉田や今橋、関屋との関係も伝わっています。
富田林市の地名は、寺内町の成立にあわせて「富田の芝」と呼ばれた荒地を開発し、富田と林を合わせた名として定着したとされます。
直島町の町名は、島の地形や「素直」「まっすぐ」といった意味合いに結びつけて語られることがあり、古くから直島の名で知られてきました。
市名は、延暦3年に桓武天皇が造営した都「長岡京」に由来します。もとの「長岡」は向日丘陵を指し、地形にちなむ名です。
長浜市の地名は、もとは「今浜」と呼ばれていた地を、天正3年頃に羽柴秀吉が改称したと伝えられます。『長』を織田信長の名にちなむとする説もありますが、確証はありません。
「習志野」は明治天皇が陸軍大演習の際に命名した「習志野原」に由来する広域の呼称です。市名は1953年12月17日の三カ町村合併促進協議会で決定され、翌年の市制施行で正式となりました。
弘法大師空海が二荒山の「二荒」を「にこう」と読んだことに由来し、「日光」の字が当てられたと伝えられます。
橋本市の地名は、応其上人が紀の川に橋を架けたことに由来すると伝えられます。橋のたもとにできた町として「橋本」と呼ばれ、その名が現在まで受け継がれました。
市名は、坂上田村麻呂が戦勝を祈願した八幡大菩薩にちなむ「八幡平」に由来するとされます。もとは山名で、神仏への感謝を込めて名づけられたと伝えられています。
光市の市名は、戦時中に海軍工廠を置く際、呉と同じ一文字地名を望んで周南町から改称されたことに由来します。のちに光町から光市となり、縁起のよい市名として定着しました。
神峰神社で徳川光圀が朝日の昇る景観をたたえたことにちなむとされ、日立村の村名から市名へ受け継がれました。日立製作所の社名もこの地名に由来します。
寛永5年(1628)に鷹ヶ岡から改称された地名で、天海大僧正の命名と伝える。旧称「広崎」の転訛説もあるが定説はない。
「広島」の地名は、天正17年(1589年)に毛利輝元が太田川の広大な三角州(デルタ)に城を築いた際に命名された。広々とした川の三角州を「島」にたとえた地形由来の地名とされる。
「福岡」の地名は慶長6年(1601年)に黒田長政が築城した際、黒田家の発祥地である備前国(現・岡山県)の「福岡」にちなんで城名と城下町名を命名したことに由来する。
福島区の地名は、菅原道真がこの地で「福島」と名づけたという伝承に由来します。もとは湿地や砂洲の島で、古くは「餓鬼島」とも呼ばれたと伝えられます。
安土桃山時代に蒲生氏郷の支配下で旧称「杉妻」から「福島」へ改名された地名。「福」の字で縁起をかついだ瑞祥地名とする説と、吾妻山からの強風が「吹島(ふくしま)」と呼ばれ「吹」を「福」に改めたとする説がある。
明智光秀が福智山城を築いた際に「福智山」と名づけたことが、現在の福知山の地名の由来とされます。のちに「智」が「知」に転じ、福知山となったと伝えられます。
福山城のある一帯が、もとは蝙蝠山と呼ばれていたことに由来します。「蝠」が「福」に通じることから、縁起を担いで福山と名づけられました。
藤崎町の地名は、坂上田村麻呂が突き立てた藤の杖が伸びて花が咲いたという伝説に由来するとされます。町名の「藤」は、後にりんごの品種「ふじ」の名にも受け継がれました。
富津市の地名は、日本武尊と弟橘媛の伝説に由来する「布流津(ふるつ)」が転じたとする説が有力です。ほかに、古い港を意味する「古津」や、岬の突端を表す古語「ほと」など複数の説があります。
室町時代、仏生寺城主が城の堀に舟を連ねて橋を架けたことに由来するとされます。舟で橋を作った出来事が地名として残ったものです。
舞鶴市の地名は、明治2年に田辺から改称されたもので、田辺城の別名「舞鶴城」に由来します。城の姿が鶴の舞うように見えたことから名づけられたと伝えられます。
「枕崎」の由来には、箱枕に入った御神体が近瀬という暗礁に漂着したという伝説と、南九州の島々で暗礁を指す「マクラ」に「崎」が付いたとする説があります。江戸時代の郷名は鹿篭でした。
松前町の町名は、加藤嘉明が正木城から松山城へ居城を移した際、「松山の前」の意で「松前」と改めたという説が知られます。ただし他説もあり、由来の詳細は確定していません。
蒲生氏郷が天正年間に築いた城下町に由来し、「松」は吉祥の意、「阪」は大坂城の「坂」にちなむとされます。明治以降は「松阪」に統一され、読みは「まつさか」です。
吉野川河口の干拓地に堤を築き、多くの松を植えたことから「松茂村」と名づけられたとされます。町名は、松が茂る景観と新田開発の歴史を映した地名です。
松本市の地名は、天正10年に深志城が「松本城」と改称された近世の城下町名に由来します。『待つ事久しくして本懐を遂ぐ』にちなむ説もありますが、佳字を用いた瑞祥地名とみるのが通説です。
「松山」の地名は慶長8年(1603年)に加藤嘉明が勝山へ城を移し「松山城」と命名したことに由来する。長寿と繁栄の象徴である松にちなんだ瑞祥地名とされる。
三朝町の町名は、町内の三朝温泉に由来するとされます。温泉名は、源氏の武将が三徳山で三度祈願したことにちなむという伝承で知られます。
景行天皇の九州平定の巡幸で、その御船(おんふね)が着岸したことに由来すると伝えられます。町名は古くからの地名として受け継がれました。
『日本書紀』の景行天皇紀にみえる「京」に由来し、京都郡やみやこ町の名につながったとされます。古代の仮宮の伝承が地名の背景にあります。
「盛り上がり栄える岡」を意味する瑞祥地名。1691年(元禄4年)に第4代盛岡藩主・南部重信が連歌の一節にちなんで「盛岡」の表記を正式に定めた。
日本武尊が草薙剣で葦を薙ぎ、火を放って敵を退けた伝説に由来するとされる地名です。古事記に見える「ヤキツ」が転じて、現在の焼津になったと伝えられます。
古くは「屋影」「屋蔭」と書き、「矢掛」の表記は今川貞世が当地で詠んだ「梓弓やかげに…」の歌から採ったとする説があります。ほかに温羅伝説にちなむ説も伝わりますが、「やかげ」の語義は未詳です。
八雲町の地名は、開墾を進めた徳川慶勝の意向で、須佐之男命の歌「八雲立つ」にちなみ命名されたものです。
八街市の地名は、明治初期の下総牧開墾で8番目に開墾された地に由来し、漢数字の「八」と「街(ちまた)」を組み合わせて名付けられました。開墾の順序を示す地名の一つで、現在の市名として残っています。
柳井市の地名は、般若姫の伝説に由来する「柳と井戸」が転じたものとされています。井戸の清水と柳の成長を結びつけた説話が市名の起源です。
前九年の役にちなむ矢羽根の説と、段差のある湿地を表す地形由来の説があります。
矢吹町の地名は、源義家が社殿の屋根を矢柄で葺いたという伝承に由来するとされます。別説として、隈戸川沿いの崖仏群や滝八幡社に結びつく地名とも伝えられています。
町名は、元正天皇が美泉にちなみ「養老」と改元した養老伝説に由来します。養老の滝や菊水泉の名と結びついた、めでたい地名です。
「吉野ヶ里」は2006年の町合併の際、日本最大の弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」の名に由来して命名された。「ヶ里」は古代条里制の土地区画「里(さと)」を示す。
『新編武蔵風土記稿』では、鉢形城落城後に各地から人々が集まって住んだことが由来とされます。中世城郭の周囲の集落を指す語に由来するという説もあり、「人が寄る町」を象徴する地名です。
「和歌山」は天正13年(1585年)に豊臣秀吉が築城の際に命名した地名で、南方の名勝「和歌浦」の「和歌」と城が置かれた「岡山」の「山」を合わせた合成語とされる。
涌谷町の地名は、砂金採取のために人々が集まり、谷が「涌きかえる」ように活気づいたことに由来するとされます。日本初の金産地として知られる土地の歴史が、地名にも刻まれています。