40件の地名を収録
港付近に生い茂っていた常緑樹の「青い森」に由来するとされる。江戸時代初期に津軽藩が港湾開発を行った際、この地名が定着した。
鰺が多く獲れたことによる説と、古地図の「アシが沢」が転じたとする説があり、いずれとも定まっていない。
板柳町の地名は、板状の土地や板屋根の家屋と柳の多い風景に由来するとされる。
由来ははっきりしていません。村公式資料は、蝦夷の中央であったため「夷中(いなか)」と呼ばれそれが「田舎」になったとする説と、稲作の歴史から「稲家(いなか)」に関係するとする見方を紹介しています。
今別町の地名は、アイヌ語の「ima-pet(イマ・ペッ)」に由来するとされ、意味は「鮭を取る川」と解釈されます。古い地名が津軽半島北西部に残った例として知られます。
2006年に下田町と百石町が合併して誕生した町で、町名は町域を流れる奥入瀬川に由来する。
大間町の地名は「大きな澗(ま)=港」に由来し、津軽海峡に面した良港を意味する言葉から生まれたとされる。
大鰐町の地名は、大阿弥陀から大阿弥・大阿尓、大阿子、大安国寺などを経て、鰐の伝説と結びついて定着したと伝えられます。仏教信仰と温泉の歴史が重なった地名です。
明治22年に下風呂・易国間・蛇浦の3村が合併し、それぞれの一字を組み合わせて成立した合成地名です。
黒石観光協会は「地名の起源はいまもってはっきりしない」としたうえで、蝦夷の地を指す国栖(クニス)が「くるし」を経て「くろいし」に転じたとする見方を紹介しています。
岩木川が屈曲して五か所に川原ができたことによる名とされるが、御神体の漂着伝承から「御所川原」が転じたとする説も伝わる。
中世に糠部を一戸から九戸までに分けて統括した区分の、五番目にあたることによる地名。
佐井村の地名は、斉明天皇5年の『日本書紀』に見える「イブリサエ」に由来するという説があり、古くからの地名として伝えられています。下北半島西端の港町として、海とともに発展してきました。
三戸町の「三戸」は、平安時代後期に糠部郡が九つの地区に分けられた際の「三番目の戸」に由来するとされます。戸は牧場の木戸や地区を表す語と考えられています。
七戸町の「戸(へ)」は、旧南部藩領に見られる区画名に由来するとされ、糠部郡を九つに分けた地名の一つと伝えられています。
新郷村は、旧戸来村と西越村の合併で成立した村名で、「新しい郷」を意味する合成地名です。村内の旧地名「戸来」は、南部地方の歴史やキリスト伝説とも結び付けられています。
地名は「率土の浜(そっとのひん)」に由来するとされ、国土の端・外れの浜を意味すると考えられています。古くは陸奥湾岸一帯を指す広い呼称としても用いられました。
田子町の地名は、アイヌ語で「小高い丘」を意味する「タプコプ」に由来する説が最も有力です。町内にはアイヌ語起源とみられる地名も多く残っています。
2005年の合併で成立した市で、市名は青森県西部一帯を指す広域地名・旧郡名「津軽」に由来する。「津軽」自体の語源は未詳。
鶴田町の地名は、鶴にちなむ村名とする説が有力ですが、由来は決定的ではありません。町の公式説明でも「鶴に因んだ村名」としつつ、詳細は明確でないとされています。
東北町は1963年に旧甲地村が町制施行に伴い改称して成立し、東北地方に位置することに由来する地名である。
市名は十和田湖にちなむ。湖名はアイヌ語のトーワタラ(湖・岩=岩の多い湖)に由来するとされる。
2005年に中里町と小泊村が合併した際、旧町村名から一字ずつを採って「中泊」とした合成地名。
南部町は、南部氏の本拠地として発達した歴史に由来する町名です。町名には中世の南部藩発祥の地としての性格が色濃く残っています。
西目屋村の地名は、津軽地方の西部にある「目屋」地域の西側に位置することに由来すると考えられます。村名は明治22年の町村制施行後に定着しました。
建武2年(1335)の文献に現れる古い地名で、和語による解釈とアイヌ語「ヌプンペッ」(野中を流れる川)説がある。
階上町の地名は、町の象徴である階上岳に由来し、山名を基にした命名と、地形的な「端の上」を意味する説がある。
中世に糠部郡を一戸から九戸までに分けて統括した区分の、八番目にあたることに由来する地名。
東通村の「東通」は、下北半島の東側に位置し、海沿いに集落が分散していた地理的特徴から「東の通り道」に由来するとされる地名です。
2006年の合併で誕生した市で、市名は3町村を流域とする平川にちなみ、一般公募により決定された。
アイヌ語の「ピラナイ」(山と山の間に川がある土地の意)に由来するといわれる地名。
寛永5年(1628)に鷹ヶ岡から改称された地名で、天海大僧正の命名と伝える。旧称「広崎」の転訛説もあるが定説はない。
深浦町の地名は、深い浦、つまり入り江の奥深い海岸地形に由来すると考えられています。日本海に面した港町としての性格を反映した地名です。
藤崎町の地名は、坂上田村麻呂が突き立てた藤の杖が伸びて花が咲いたという伝説に由来するとされます。町名の「藤」は、後にりんごの品種「ふじ」の名にも受け継がれました。
明治14年に百石村から分離して成立した三沢村を継ぐ市名だが、「三沢」という地名自体の由来は明らかでない。
1960年に大湊田名部市から改称して生まれた、日本初のひらがな表記の市名。旧国名「陸奥」にちなむ。
陸奥湾沿いに横に長く伸びる浜の地形によるとされる地名。江戸時代には盛岡藩の湊「横浜湊」として記録される。
「よもぎた」の語義を説明した資料は確認できず、由来は未詳です。村史には旧村名として古くから見え、「後潟村の北を蓬田村と云い、中沢、広瀬を合す」と記されています。
糠部を九ヶ戸四門制に区分した「戸」の一つで、奥入瀬川流域一帯を六戸と称したことによる地名。
明治22年の町村制施行にあたり、倉内・平沼・鷹架・尾駮・出戸・泊の6か村が合併して成立したことによる村名。