60件の地名を収録
市名は木曽義昌をしのんで詠まれた和歌にちなむとされ、旭市の由来として伝えられています。旧旭町の成立時に採られた名称で、現在の市名へ受け継がれました。
我孫子市の「我孫子」は、古代の人名・氏族名に由来すると考えられ、鎌倉時代末には「アビコ」として確認できます。大和政権との結びつきや、各地に残る同系統の地名とも関係があるとされています。
地名は古くは伊自牟・伊甚などと記され、夷隅は「いじむ/いじみ」からの変化とされます。のちに難字の灊に代わって夷隅が用いられ、平成の合併でひらがなの市名「いすみ市」となりました。
市川市の地名は、江戸川が「一の川」と呼ばれたことや、川沿いに市が立ったことに由来するとされます。市内には真間や菅野など、地形を反映した地名も多く残ります。
上総国一之宮・玉前神社の門前町として発展したことに由来し、町名は「一宮」の神社名を受け継いだものです。
市原の地名は、古くは「市原郡」「市原郷」として見え、諸説あるものの、養老川の浸食地形や「いちいの繁茂する原野」などに由来するとされます。
印西の地名は、印旛郡の西部にあたることを表す中世荘園名の復活使用とされます。印旛沼の西に位置する地理的特徴を反映した名です。
浦安市の名は、明治22年の三村合併時に「浦、安かれ」と海辺の安泰を願って付けられたとされます。一説には『日本書紀』に見える「浦安の国」にちなむともいわれます。
大網は「大きな網」を意味する地形・漁撈に関わる地名とされ、白里は白砂の海岸や里の景観に由来すると考えられています。合併で市名となった大網白里市は、旧来の地名を組み合わせた名称です。
「大多喜」は、古くは「大滝」「大瀧」とも書かれ、川の流れが急で大きな滝のように見える地形に由来するとされます。城下町として発達した大多喜町の中心地名として定着しました。
鎌倉時代に北条時頼が当地の最明寺に宿泊したという伝承にちなみ、「御宿」の名が生まれたとされています。町役場では、この説が広く町民に伝えられている由来として案内しています。
柏市の地名は、手賀沼の河岸場「かしば」が転じた説と、カシワの木が多かったことに由来する説があり、正確な起源は未詳です。
勝浦市の地名は、勝占の忌部氏に由来する説が有力で、天然の良港を意味する「勝れた浦」などの説も伝わります。古くから漁業と港町として発展した地名です。
市名は香取神宮の門前町として知られる「香取」に由来し、古くは『万葉集』にも「香取海」と見える地名です。語源には諸説ありますが、神社名と結びついた地名として定着しました。
地名の由来は定説がなく、釜形の谷や蒲・茅の生える谷などの説がある。中世の「蒲萱」表記との関連も指摘されている。
市名は、市域を流れる加茂川に由来し、旧地名の「加茂」や『倭名類聚抄』にみえる加茂郷との関連も指摘されています。明治22年の町村合併時に、史的所伝を踏まえて鴨川町と名付けられました。
「きさらぎのつ」が転じたとする説があり、月の名「きさらぎ」と港を表す「津」に由来すると伝えられます。ほかにも「城の津」など複数の説がある地名です。
君津市の「君津」は、明治期に成立した郡名に由来し、木更津の「君不去(きみさらず)」伝説を略したものと伝えられます。市名としては昭和の合併で受け継がれ、地域の中心を示す名称として定着しました。
鋸南町は、町の北にそびえる鋸山の南側に位置することから名づけられた地名です。町名は「鋸山の南」を意味する表現に由来します。
九十九里町は、町名が九十九里浜の名に由来するとされます。九十九里浜の長大な海岸線を背景に、合併時の新命名として定着しました。
神崎町の「神崎」は、地名辞典系資料では「かみ・さき(岬)」の転訛で、高い山が突き出した場所を表すとされます。町内には神崎本宿・神崎神宿などの関連地名も残ります。
栄町は、合併によって誕生した町名で、「栄える」という縁起のよい語を用いた新しい自治体名です。町内の安食の地名には、五穀豊穣を祈願して「食に安んずる」ようになったことに由来する伝承があります。
「佐倉」は、麻布を納める貯蔵庫の「あさくら」が転じた説や、「さ」が付いて「さくら」となった説が伝わります。古くから倉を建てて暮らした土地柄が地名にうかがえます。
山武市の市名は、旧郡名の山武郡に由来する合成地名です。山辺郡と武射郡の名を合わせたもので、読みは旧来の「さんむ」を受け継いでいます。
町名は「酒の井」伝説に由来するとされ、孝行息子が井戸から酒を汲んだという話が広く伝わります。ほかに「洒々井」や「出水」からの転訛とみる説も紹介されています。
芝山町の名称は、合併時に知名度の高い芝山仁王尊観音教寺と、明治2年に設置された柴山藩を考慮して名付けられました。
白子町の地名は、地域の鎮守・白子神社に由来するとされます。白い亀の上に白蛇が現れたという伝承が、地名成立の背景として伝えられています。
白井市の地名は、古くからの「白井郷」に由来すると考えられます。泉の豊かさや水の清らかさ、谷津田開発に関わる説も伝わります。
匝瑳市の地名は、古くは「匝瑳郡」に由来し、郡名の成立には地形や古い地域名の継承が関わったと考えられています。現在の市名は、合併後に旧郡名を受け継いで定められました。
弟橘媛の袖が海岸に流れ着いたという伝説に由来するとされ、東京湾の入り江や岬の形にちなむ説も伝わります。市名は旧袖ヶ浦町から市制施行後に継承されました。
多古町の地名由来は確定史料がなく諸説ありますが、湖沼の多い土地を表す「多湖」からの変化説や、古い村が多かったとする説などが伝わります。
館山市の地名は、城山に領主の館があったことから「館の山」と呼ばれたのが由来とされます。里見氏の城下町として発展し、昭和14年の市制施行時に市名として採用されました。
語源は未詳とされるが、茅が生い茂る土地「茅生(ちぶ)」が転じた説や、下総台地の崖地を意味する地形語源説が有力候補として挙げられる。
利根川河口が酒器の銚子に似ることから名づけられたとされる地名です。江戸時代後期から用例が見られ、河口の狭い地形に由来する説が有力です。
長生村の名は、明治29年に長柄郡と上埴生郡が合併してできた長生郡に由来します。村名はその郡名を受け継いだもので、「長く生きる」を連想させる縁起のよい地名です。
町名は、旧庁南町の読みを受け継ぎつつ、古く見える「長南郡」の字を復活させた新命名で、長柄郡の南部を表す漢語表現とされます。
地名は「鴇が根(ときがね)」に由来するとされ、最福寺背後の山嶺がトキの頭に似ることから転訛したという説が有力です。江戸期には徳川家康の御成を機に「東金町」と称したと伝えられます。
中世の荘園名を復活させた新命名で、千葉氏一族の東氏が領有した荘園に由来します。町名は「東氏の荘園」を意味するものとして定着しました。
明治22年の町村制施行で、十三の里にちなむ「富里村」として成立し、のちに市制施行しました。地名は開墾の順序と美称を組み合わせたもので、七栄や十倉なども開墾順に由来します。
長柄町の地名は、古代の郡名「長柄郡」に由来する説が有力で、丘陵地の地形を表す「長原(ながらはら)」が転じたとする説もあります。町史では古くから「ナガラ」の地名が各地に見られることも示されています。
流山市の地名は、上州赤城山の一部や赤城神社のお札が洪水で流れ着いたという伝承に由来するとされます。市名は水害と深く結びついた「流れ山」のイメージから生まれたと伝えられています。
「習志野」は明治天皇が陸軍大演習の際に命名した「習志野原」に由来し、市名は1954年の市制施行で採用されました。
成田の地名は、雷の多い土地を表す「鳴田」、稲のよく実る「熟田」、開墾に由来する「業田」などの説が伝わります。
地名の由来は諸説ありますが、原野が開かれて水田になったことに由来する説が有力です。ほかに「湿地」を表す語や、野田右馬助の館に由来する説も伝わります。
富津市の地名は、日本武尊と弟橘媛の伝説に由来する「布流津(ふるつ)」が転じたとする説が有力です。ほかに、古い港を意味する「古津」や、岬の突端を表す古語「ほと」など複数の説があります。
海老川に舟を並べて板を渡した「船橋」に由来するとされます。ほかに、台地の端を表す地形語が転じたとする説もあります。
太日川(現在の江戸川)の渡し場に由来する説があり、「馬津(うまつ)」や「待渡(まちど)」が転じたとされます。渡河の要地としての性格が、松戸の地名形成に影響したと考えられています。
南房総市は、2006年に旧6町1村の合併で成立した市名で、房総半島南部に位置することを示す瑞祥的な名称です。『南』は県南の位置、『房総』は上総・下総・安房を合わせた広域名に由来します。
町名は、旧村名の「睦」と「沢」を合わせた合成地名とされ、合併によって成立しました。周辺の村名を組み合わせた新しい自治体名で、地域の結びつきを表しています。
市名は、もとは湿地の多い「藻原」と呼ばれた地名が、江戸時代に「茂原」の字へ改められたことに由来するとされます。古くは藻原荘の名も見られ、地域の歴史と結びついた地名です。
八街市の地名は、明治初期の下総牧開墾で8番目に開墾された地に由来し、漢数字の「八」と「街(ちまた)」を組み合わせて名付けられました。開墾の順序を示す地名の一つで、現在の市名として残っています。
八千代市の市名は、昭和29年の町制施行時に公募で決まった瑞祥地名で、「永くいつまでも」「無限の発展性」を願う意味が込められています。
横芝町と光町の合併で成立した町名で、両町の歴史や文化を継承し、心を一つにして発展する願いが込められています。
四街道市の地名は、四方へ道が分かれる四街道十字路に由来します。明治14年に建てられた道標石塔が、地名発祥の地として伝えられています。