🗾 地名由来辞典

高砂市 ( たかさごし )

兵庫県 / 高砂市 平安時代由来

AI生成・人間確認済み

「たかさご」はもともと「高い砂丘」を意味する普通名詞で、加古川河口の西岸に砂が堆積してできた地形を指した名と考えられています。平安初期の『経国集』に播磨の地名として現れ、歌枕・謡曲「高砂」で広く知られました。

語源

「たかさご」は、もともと特定の土地の名ではなく地形を指す普通名詞でした。『精選版 日本国語大辞典』は「たかさご【高砂】」の第一義を「砂の高く丘のようになった所。高い砂丘」と説明し、用例の初出として催馬楽「高砂」(7世紀後半〜8世紀)を挙げています。同系の語に「高砂子(たかすなご)=小高く盛り上がった砂地」もあり、いずれも砂の高まりを言い表す語です。

高砂市域は、東端を南流する加古川の河口西岸に開けた沖積平野で、市街地は河口部の砂の高まりの上に発達しました。「高い砂丘」を意味する語が土地の名として定着した、と考えるのが素直な読み方です。

ただし、「たかさご」の語義が一つに定まっているわけではありません。歌学書『五代集歌枕』は「たかさごとは、すべて山を云と古人説也。しかはあれど所名につきてかはる也」と記し、山の総称とする古人の説を伝えています。歌に詠まれた「高砂」が山の総名なのか特定の土地の名なのかは一首ごとに判断するしかなく、判別できない例も多いとされます。砂丘説はこの播磨の高砂によく合いますが、語そのものの解釈には幅があります。

地名としての「高砂」が文献で確認できるのは平安時代前期からです。天長4年(827年)ごろに編纂された『経国集』巻十三に、淡海福良満(おうみのふくらまろ)の「夕べに播州高砂に宿る」と題する詩が収められ、「夕次(やど)高砂浦 時風暴且寒」と詠まれているのが、播磨の寄港地としての最古の記録とされます。その後、康和4年(1102年)の丹波国司下文(東寺百合文書)に「高砂津」、治承4年(1180年)に厳島参詣へ向かう高倉上皇が「高砂の泊」に着いた記事(『高倉院厳島御幸記』)、建永2年(1207年)に土佐配流の途中で法然が高砂浦へ寄港した記事(『法然上人絵伝』)と、港の名として史料に現れ続けます。

なお、『日本歴史地名大系』によれば、古代から中世の「高砂」は現在の高砂町から加古川市尾上町養田・池田付近までを指す地名で、高倉上皇が上陸した「高砂の泊」も現在の加古川市尾上町養田付近にあたります。中世の港がそのまま現在の高砂市街になったわけではなく、いまの市街は近世の町割りによって整えられたものです。

歴史的変遷

時代呼称備考
平安高砂(浦)天長4年(827年)ごろの『経国集』巻十三「夕宿播州高砂」が播磨の地名としての初出とされる
平安高砂津・高砂泊康和4年(1102年)丹波国司下文に「高砂津」。治承4年(1180年)高倉上皇が高砂の泊に上陸。泊の位置は現在の加古川市尾上町養田付近
鎌倉高砂浦建永2年(1207年)法然が寄港し多くの人々に結縁。高砂町横町の十輪寺は法然を中興開山とする
江戸高砂慶長5年(1600年)姫路城主池田輝政が町割りを作り、慶長17年(1612年)高砂城を築城。本多忠政の時(元和3年〜寛永16年)に現在の町の基礎が築かれる
昭和高砂市昭和29年(1954年)高砂町・荒井村・伊保村・曽根町が合併し市制施行

地名の特徴

高砂の名を全国に広めたのは、港としての働きよりも歌の世界での知名度でした。『古今和歌集』(905〜914年)には藤原興風の「たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」が収められ、仮名序も「たかさご、住之江の松も相生のやうにおぼえ」と記して、高砂を住之江と並ぶ松の名所として扱っています。のちに世阿弥がこの歌枕を素材に謡曲「高砂」(古名「相生」「相生松」)を作り、「高砂や、この浦舟に帆を上げて」の一節は祝言曲として 広く定着しました。高砂市のプロフィールも、市名が「めでたい」名として知られる理由をこの謡曲に求めています。

ただし、これは地名が有名になった経緯であって、語源そのものではありません。名の元はあくまで河口の砂の高まりを指す地形語で、謡曲や高砂神社の「相生の松」は、その地名が後に背負った物語にあたります。高砂神社は古くは牛頭天王社と呼ばれ、慶長17年(1612年)の高砂城築城でいったん移され、廃城後の寛永3年(1626年)に本丸跡へ戻されました。地名・城・神社・謡曲が同じ名を共有しているのは、いずれもこの地形由来の地名から枝分かれしたためです。

特産・名物

高砂市の特産品は、播磨臨海工業地帯に集まる食品工場の製品と、播磨灘の海産物を用いた加工品に大きく分かれます。

【代表的な特産品】

参考資料・出典

最終更新: 2026-09-21